大橋宗古

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二代大橋宗古(おおはし そうこ、1576年(天正4年) - 1654年8月27日承応3年7月15日))は日本将棋指し二世名人。父は一世名人初代宗桂。弟に初代大橋宗与。子に三代大橋宗桂、初代伊藤宗看妻。孫に四代大橋宗伝、五代大橋宗桂

経歴[編集]

寛永11年(1634年)、名人就位。宗古は当時59歳。彼の世襲により家元制が確立。彼の手により、弟の宗与を祖とする大橋分家、娘婿の伊藤宗看を祖とする伊藤家が始まる。以後、江戸幕府が倒れるまで、大橋本家をあわせたこの三家から名人を出すことになる(詳しくは「名人 (将棋)」の項を参照)。

宗古時代の将棋家元の権威は低く、松本紹尊萩野真甫檜垣是安といった在野棋客からの挑戦が相次いだが、老齢の宗古に代わって娘婿の初代伊藤宗看が対戦し、家元の権威を守った。

1654年(承応3年)に79歳で死去。名人位は初代伊藤宗看が、大橋本家は三代大橋宗桂が継いだ。1660年(万治3年)、三代大橋宗桂が48歳で死去、その子である四代大橋宗伝も1662年(寛文2年)に25歳で死去し、大橋本家は断絶の危機を迎えたが、初代宗看の子で二代宗古の外孫にあたる宗銀が大橋本家を継承し、五代大橋宗桂となり存続した。

宗古の棋譜[編集]

現存する宗古の最初の棋譜1653年承応2年)に刊行された『仲古将棋記』(将棋指組)に収録されている本因坊算砂との十五番指しである。

この対局は、1619年元和5年)から1621年(元和7年)にかけて行われた。当時は算砂のほうが格上だったため、手合割は宗古が下手で平香交り(平手と右香落ちを交互に指す)である。第二局は、現存する最古の駒落ちの棋譜である。

結果は、平手では宗古の4勝3敗1持将棋、香落ちでは宗古の5勝2敗、通算で宗古の9勝5敗1持将棋と勝ち越している。

なお、第一局が行われた1619年の時点で宗古44歳、算砂61歳であった。

著書・功績[編集]

著書に「象戯図式」(俗称:将棋智実)「象戯手引草」「将棋経妙」など。

「象戯図式」の巻末でルールを成文化する。

このルールは基本的に現在に受け継がれているが、千日手については後にルールが複数回改定されている(詳細は千日手を参照)。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

茶屋軒三・西條耕一「江戸の名人」(『将棋世界』2011年4月号162-165頁、2011年5月号94-98頁、2011年6月号154-158頁掲載の回を主に参照)

外部リンク[編集]