大森貝塚

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大森貝塚遺跡庭園

大森貝塚(おおもりかいづか)は、東京都品川区から大田区にまたがる縄文時代後期 - 末期の貝塚。モース貝塚とも。

目次

[編集] 概要

大森貝塚遺跡庭園内のモーセ博士像

アメリカ人の動物学者・エドワード・S・モースが、1877年明治10年)6月19日横浜から新橋へ向かう途中、大森駅を過ぎてから直ぐの崖に貝殻が積み重なっているのを列車の窓から発見し、発掘調査を行った。

1955年昭和30年)3月24日には、国の史跡に指定された。モースらの発掘した貝殻、土器土偶石斧石鏃鹿の骨片、人骨片などの出土品は東京大学に保管されており、1975年(昭和50年)に全て国の重要文化財に指定されている。

[編集] 二つの貝塚碑

品川区の大森貝塚碑
大田区の大森貝墟碑

現在、大森貝塚に関する石碑は品川区側の遺跡一帯に整備された大森貝塚遺跡庭園内と、大田区側の大森駅近くの山王の2ヵ所にある。前者は「大森貝塚」、後者は「大森貝墟」と書かれており、貝塚碑は1929年(昭和4年)、貝墟碑は1930年(昭和5年)に相次いで建てられた。

モースが論文に発掘場所の詳細を書かなかったこと、貝塚発見の報告文書に所在地が大森村と記述されたことから、当初の発掘地点について長い間、品川区説と大田区説の2つが存在した。しかし、その後1984年(昭和59年)までの複数の調査により、東京府が大井村字鹿島谷(現在の品川区大井6丁目)の土地所有者に調査の補償金を支払った文書が発見されたこと、貝塚碑周辺の再発掘で貝層が確認された一方、貝墟碑周辺では見つからなかったことから、現在ではモースが調査したのは品川区側であったことがわかっている。

[編集] モースと小シーボルト

大森貝塚の発掘には、モースの他に、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの次男であるハインリッヒ・フォン・シーボルトが関わっている。ハインリッヒは、考古学に精通していたが、学者ではなく外交官(通訳官)であった。

ハインリッヒは、大森貝塚の発見を彼の師であるコペンハーゲン国立博物館館長J.A.ウォルソーに報告(1878年(明治11年)7月20日)しており、この報告によればハインリッヒの大森貝塚発掘は、その前年の1877年秋、モースの発掘の前に行われた可能性がある。

モースとハインリッヒは、第一発見者の功を争っており、少なくともモースは自著「日本その日その日」において、発掘調査開始にあたって誰かに先を越されることが心配だった、と述べている。

モースは1877年(明治10年)9月16日に1回目の調査を行うと、慌しく5日間で論文を執筆した。また、10月には東京大学東京府に対して発掘調査の独占許可を要請し、この許可を得た。

モースは、『ネイチャー』1877年12月19日号に、同年9月21日付として自身の大森貝塚発見の記事を投稿したが、一方でハインリッヒも1878年1月31日号に自身が大森貝塚を発見したとの記事を寄せ、モースを激怒させた。

最終的には、モースが大森貝塚の報告書を1879年に出版したこと、ハインリッヒの本業である外交官業務が多忙を極め考古学研究から遠ざかったことが決定打となり、ハインリッヒの日本における考古学研究活動は終わっている。

ハインリッヒに対しての研究は1996年(平成8年)に行われたシーボルト父子展、ハインリッヒの没後100年の2008年(平成20年)に行われた各所での記念展において扱われた程度である。老練な研究者モースにハインリッヒが挑んだこの研究論争によって、日本の考古学が飛躍的に発展を遂げた[要出典]。ちなみに、日本において考古学という言葉を使い始めたのはこのハインリッヒが出版した「考古説略」が始めであることは余り知られていない。

指紋捜査の研究は、大森貝塚から始まったものである[1]

[編集] 時代背景

縄文時代後期は寒冷化に伴う環境の変化により、木の実、動物などの食料が減少した時代である。さらに東京、神奈川一帯では箱根山の噴火や富士山の噴火が長期化したため食料の確保が難しくなり、それに伴い急激な人口減少が起きている。そのため東京、神奈川では縄文時代晩期の遺跡はほとんど見当たらない。その際、寒冷化に伴う食料資源の減少が少ない海産物を中心に食料の確保をしたため、この貝塚ができたとされる。

[編集] 参考図書

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

  1. ^ http://www.tokyo-np.co.jp/article/thatu/list/CK2011090702000044.html
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