大学受験ラジオ講座

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大学受験ラジオ講座(だいがくじゅけんラジオこうざ)は、文化放送やラジオたんぱ(現:ラジオNIKKEI)など全国のAM,FM,SWラジオ放送局で放送された番組。旺文社一社提供。通称「ラ講(ラこう)」。

目次

[編集] 概要

1952年昭和27年)3月31日の文化放送開局と同時にスタートした。ブラームス作曲の「大学祝典序曲」がテーマ曲として使用された(ただし末期はポップ調にアレンジ)ことでも知られる。

基本的には毎日1講座30分単位で2本放送された。放送開始・終了、講義開始前・終了時のアナウンスは各局それぞれで行っており、あいさつが異なるケースさえみられた。放送時間もエリアもかぶるCBCぎふチャンでは、テーマ曲が2回流れるぎふチャンのほうがやや本編が遅く放送されていた。

なお例年12月31日はAM全局とラジオたんぱで「ゆく年くる年」が放送される関係で、放送休止(休講)となっていた。

開始当初は、大半の局で22 - 24時の夜間に放送されていたが、22 - 24時が若者向けになるにつれて、ほとんどのラジオ局は早朝5:00 - 6:00の放送になった。1980年(昭和55年)10月改編以前で夜間放送だったのはラジオたんぱと文化放送(23:30 - )、およびラジオ関西(23:35 - )だった。当時、文化放送の22時以降は「夜のニュース・パレード」や外郭団体(日本英語教育協会)経由で実質旺文社提供だった「百万人の英語」などの番組が並んでいた。

また1982年(昭和57年)以降、地方FMラジオ局開局が続き、AMラジオ局で放送されない地域で早朝5:00 - 6:00にFMラジオ局で放送され、放送形態の垣根を越えて放送される番組となった。これは。開局間もないFM局で、旺文社という大スポンサーが1時間もスポンサーについてくれる一方で、これまで既存AM局では何らかの事情でネットされなかった[要検証]ためと思われる[誰?]。またそういった地方の学生のために旺文社は後にラジオ講座を編集したテープを販売していた。

[編集] 文化放送での野球放送への影響

当番組は特に、旺文社が大株主となっていた文化放送で長年、編成上のネックとなっていた。特に1980年代以降、文化放送が平日の野球中継に参入すると、深刻な影響を及ぼすようになっていった。

1980年(昭和55年)10月改編で文化放送初の本格的な夜ワイド「吉田照美のてるてるワイド」が立ち上げられると、24時までの放送枠を確保するため月曜日から金曜日の講座が夕方の18:30 - 19:30に移動した。当時はまだ平日の野球放送がなく、かつ土曜日と日曜日の講座は『ホームランナイター』の絡みで放送時間が異なっていた(24:30 - 25:30)ため問題は少なかったが、1982年(昭和57年)に立ち上げられた「ライオンズDJ」が1984年(昭和59年)4月改編で放送時間延長になると、試合開始から終了までの放送を求めるリスナーの声に応えられないという新たな問題が沸きあがる。 1984年(昭和59年)は30分繰り上がって18:00 - 19:00の放送に変更、翌1985年(昭和60年)4月の改編で「ライオンズDJ」が他局と同じ一般的な中継スタイルを取り入れた「文化放送ライオンズナイター」に生まれ変わると、試合開始からの放送に対応するため再び深夜に戻された。ここで平日と週末の放送時間が統一され、全曜日24:30 - 25:30の放送となった

しかし、今度は野球放送が長引いたときにラジオ講座の存在が後続の番組に影響を及ぼすようになる。当時は試合開始後3時間20分を超えて新たなイニングに入らないルールがあったため、「ホームランナイター」で18時30分開始の神宮球場ヤクルト主催ゲームを中継しても、22時までには試合終了のメドが立っていた。このため18時開始の西武ライオンズ球場西武主催ゲームを中継することを前提に、ライオンズナイターは21時30分までで延長なしと設定された。ホームランナイターはNRN全国ネットの関係上、21時までを定番枠とし最大22時までの延長放送を行うと設定された。これにより、「さだまさしのセイ!ヤング」や「落合恵子のちょっと待ってMONDAY」は定時から放送でき、タイマー録音する学生への配慮やテキストへの時間記載などで24時30分のスタートをずらせなかったラジオ講座の放送にも支障を与えないという編成政策が採られた。

1989年平成元年)は、前年10月に開局したNACK5が筆頭株主になったライオンズの親会社西武鉄道の意向を受けて、国内FM局初の本格的なスポーツ中継に取り組むことになった。文化放送はNACK5と業務提携、土曜日と日曜日のライオンズ戦中継を任せることにした。

一方、平日のライオンズナイターは21時30分での打ち切りを維持したものの、それ以降試合が続く場合はNACK5で試合終了までリレー放送する形とした。

ところが1990年(平成2年)のNPBのルール改正で、パ・リーグの試合時間制限が4時間に延長されると、平日でも夜ワイドの時間まで野球中継がずれこむケースが増えるようになった。文化放送ではNACK5へのリレー放送こそ取りやめたものの、当時の夜ワイド「今夜もBREAK OUT ラジオバカナリヤ」は22時から放送される内包番組の絡みもあって繰り下げ時間の確保が難しかった。「ライオンズナイター」は西武球場の試合であれば22時までに終了のメドが付くとして、前年から20分繰り下げた最大21時50分での打ち切りとし、いち早く試合時間無制限に切り替わっていたセ・リーグの試合が中心の「ホームランナイター」も最大延長を22時30分に設定した。

1991年(平成3年)は「ライオンズナイター」の延長を22時まで認め、ラジオ講座の後続番組だった「百万人の英語」が打ち切られた1992年(平成4年)からは22時以降もニッポン放送TBSラジオと同様に夜ワイドの放送時間を短縮するスタイルが導入され「ライオンズナイター」は試合終了まで放送できるようになった。スタッフにとっては、『ライオンズDJ』スタートから11年目で悲願の完全放送を実現する形となった。

しかし、「ホームランナイター」は後続に「セイ!ヤング」「東京ライブミックス」といった生放送番組があること、さらにはそれら番組の出演者やスポンサー、「セイ!ヤング」に至っては同時ネット局の存在も障害となり、この年も試合終了までの放送はできなかった。1994年(平成6年)は平日の放送がなくなったにもかかわらず土日に集中する形となった「Jランド」が引き続きネックとなり、最大延長が23時に設定される。ホームランナイターも試合終了まで放送できるようになったのは、「Jランド」の終了でラジオ講座の系譜が文化放送から完全に消えた1995年(平成7年)4月改編からである。

[編集] 番組の終焉とその後

長らく24:30 - 25:30で放送されていた当番組であるが、文化放送にとって久々の深夜放送である「Come on FUNKY Lips!」開始のため、1994年(平成6年)4月改編をもって平日の放送が終了となる。

最後の年度となった1994年度(平成6年度)は、番組改革のため文化放送とラジオ関西では大学受験ワイド番組「Jランド」(パーソナリティは文化放送アナウンサー藤木千穂)として土曜・日曜の23時から情報コーナーを挟んだ集中放送形態に変更(これによって各講座の1コマあたりの時間も短縮)、情報コーナーは旺文社がラ講テキストに替えて創刊したCD講座付き受験情報誌「KEISETSUアルシェ」と連動させた。

他のネット局は帯番組形態を継続しつつも「Jランド・旺文社大学受験ラジオ講座」と改題し放送時間が45分に短縮された。長年使われた「大学祝典序曲」もこの年度は使用されなかった。

旺文社では第2次ベビーブーム世代の大学進学が一巡し本格的な少子化時代を迎え、リスナーの絶対数が減るとともに番組テキストの売り上げも先細りになると判断。1995年(平成7年)4月2日の放送をもって番組終了、43年の放送にピリオドを打った。その後、2001年(平成13年)に旺文社は経営再建のため保有していた文化放送株をすべて売却し同社との資本関係を解消した。

なお、ラジオたんぱでは「合格プロジェクト」(1993・1994年度)・「合格ラジオ」(1995年度以降)に含まれるかたちで1998年度まで「ラジオ講座」が引き続き放送され[1]、旺文社もこれに合わせる形で1999年(平成11年)1月まで「KEISETSUアルシェ」の発行を続けていた。

[編集] 主な歴代講師

[編集] ネットしていた放送局

[編集] AM局(21局)

[編集] FM局(9局)

[編集] 短波局(1局)

[編集] 脚注

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  1. ^ 新聞のラジオ欄・「ラジオ番組表」より。

[編集] 関連項目

ラ講最終年度で「大学祝典序曲」に代えて、諸岡の歌う「私の空の青」が使用されていた。
この4人は1995年4月 - 1998年9月に「大学受験ラジオ講座」の後継番組(提供:旺文社)として、タイトルを変えながら出演していた。
大学生時代、ラジオ講座の一コーナーだった「蛍雪アワー」のDJとして活躍した。
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