大内義綱

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大内 義綱(おおうち よしつな、生没年不詳)は戦国時代武将陸奥国安達郡小浜城主。別名は定頼。大内定綱片平親綱の父。備前守と称する。

経歴[編集]

大内氏[1]は当初、塩松氏の重臣であった[2]が、義綱は天文11年(1550年)に主君の塩松尚義塩松城二の丸に幽閉して石橋氏の実権を掌握、永禄11年(1568年)には田村氏に内応して尚義を追放し、塩松地方を手中に収めた。翌年には石橋氏の重臣だった宮森城主・大河内備中を攻め滅ぼしている。その後は田村氏の旗下に入り、天正4年(1576年)には安積郡に侵攻し片平城を落とすなど活躍した。また,二本松市木幡に鎮座する隠津島神社(おきつしまじんじゃ)の棟札によると,天正5年(1577年)大檀那として造営に当たったとされている。『大内氏系図』によれば、天正11年(1583年)5月に87歳に没したと伝えられている。

子の定綱の代には田村氏から独立して田村清顕とたびたび交戦した。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 本姓多々良氏。系譜上では西国の有力大名大内氏の庶流とするが、いつ嫡流から分かれたか不鮮明であり、仮冒の可能性もある。そもそも陸奥大内氏は石橋氏庶流・塩松氏の執事として奥州安達郡に入部した家系である。
  2. ^ 佐藤貴浩は大崎氏の執事とされる氏家氏のような諸大名との取次役を石橋氏(塩松氏)の執事である大内氏が担った可能性を指摘している(佐藤、2017年、P8-9)。

参考文献[編集]

  • 佐藤貴浩「大内定綱の動向と伊達氏」戦国史研究会 編『戦国期政治史論集 東国編』(岩田書院、2017年) ISBN 978-4-86602-012-9