大乗非仏説

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大乗非仏説(だいじょうひぶっせつ)とは大乗仏教の経典は、釈尊の説いたものではなく、後世に作られたものだという説。

目次

[編集] 概要

日本では、仏教は江戸自体に寺請け制度で権力の一翼を担い堕落していたため、幕末に仏教に批判的な思想家等によって展開された。 明治維新以降は西洋の仏教研究が日本に流入し、その影響も受けた。

仏教内部においては、大乗仏教を認めない上座部仏教の側から主張された。

仏教の経典に対する文献学的研究では、大乗仏教の経典は釈尊の般涅槃から数百年後に編纂され、釈尊に仮託された思想文学であるという結論が支持されている。 また、徐々に成立した仏教思想史の一環として大乗仏典を捉える見方が一般的になっている。複数の僧伽が涅槃や悟りが何であるかとの論争で対立していた部派仏教からの脱却を狙って涅槃は定義不能な「空」であると論じ仏教を大乗仏教として再復興した龍樹もこのような視点から評価されている。

[編集] 伝統的な「仏説」観

経典は、ごく最古の経典を除き、冒頭で「このように私は聞いた」(如是我聞=是くの如く我聞けり)と述べ、釈迦の説法を聞き写したという体裁をとっており、上座部仏教圏(スリランカビルマタイラオスカンボジア等)、大乗圏(インドネパールチベットモンゴル中国朝鮮日本ベトナム等)のいずれの伝統教団も、大蔵経 (一切経)として擁する経典群を、釈迦が八十数年の間に説いた教えとして扱っている。[1]

大乗仏教圏は、経典に使用する言語により、

  • サンスクリット仏典圏(インド・ネパール)
  • 漢訳仏典圏(中国・朝鮮・日本・ベトナム等)
  • チベット語仏典圏(チベット・モンゴル)

の三つに大別されるが、そのうち、

  • 中国では、仏教の初伝以来、数世紀にわたり断続的に仏典の請来と翻訳が続いたが、作成年代が異なる経典間に大きな相違がある事実から、仏典群の整理分析にあたっては、いずれの経典に釈尊の真意が存在するか、という方向がとられた。中国の内外に大きな影響を与えた説としては、天台大師智顗による五時八教教相判釈があり、歴史上の釈尊の段階的時期に配置し、その中で『法華経』を最高に位置付けた。智顗の説は、日本の天台宗や、日蓮系の諸宗派にも採用されている。
  • チベットでは、8世紀末から9世紀にかけ、国家事業として仏教の導入に取り組み、この時期にインドで行われた仏教の諸潮流のすべてを、短期間で一挙に導入した。仏典の翻訳にあたっても、サンスクリット語を正確に対訳するためのチベット語の語彙や文法の整備を行った上で取り組んだため、ある経典に対する単一の翻訳、諸経典を通じての、同一概念に対する同一の訳語など、チベットの仏教界は、漢訳仏典と比してきわめて整然とした大蔵経を有することができた。そのため、チベット仏教においては、部分的に矛盾する言説を有する経典群を、いかに合理的に、一つの体系とするか、という観点から仏典研究が取り組まれた。

これら両仏典圏の伝統教団では、経典が釈迦の直説であることは自明の伝統とされ、疑問や否定の対象とはされてこなかった。

なお、大乗仏教思想に対しては、発生当初より上座部の立場より非難されてはいた。

[編集] 近世以降の大乗非仏説

近世以降の「大乗非仏説」説では、文献学的考証を土台とし、仏教が時代とともにさまざまな思想との格闘と交流を経て思索を深化し、発展してきたことを、「実際存在する/伝わった経典を証拠に、事実として示す」のが特徴である。

[編集] 議論

大乗経典は元々の口伝による伝承そのものが存在しないという主張がある。

すでに紀元前1世紀頃には、上座部(南方分別説部)が布教されたスリランカにおいてパーリ語経典が貝葉に記録されているが、このスリランカに伝承されたパーリ五部と、シルクロードを経て2世紀半ばから中国で漢訳されはじめた阿含経(漢訳四阿含等)とでは、部派が異なるにも関わらず教えの内容がほぼ一致している。このともにインド文化圏の周辺域で記録された経典が共通性を持つことに注目し、そして紀元前2世紀~前1世紀にかけてインド仏教聖地で建立された碑文に「五部の精通者」云々の語句が認められることを勘案すれば、大乗仏教運動が起った時点ではすでに諸部派において「釈尊の言い伝え」として承認される経典の範囲が確定していた可能性は高い。

つまり、大乗経典は四部または五部に分類される経典の何処にも場所を持たなかったと考えられるのである。

[編集] 文献学的考証に対する扱い

文献学研究の結果では、時代区分として、初期仏教(原始仏教)の中の仏典『阿含経典』、特に相応部(サンユッタ・ニカーヤ)などに最初期の教え(釈迦に一番近い教え)が含まれていることがほぼ定説になっており、少なくとも「大乗仏典を、歴史上の釈尊が説法した」という文献学者はいない。

ただし、注意しなければならないのは「歴史上の釈迦の説法ではないので、大乗仏典には価値がない。真理ではない。」ということではない。それはたとえるなら、「イソップ寓話が、動物達が人間の言葉を話すから、事実でなく嘘であり、それには意味がない/価値がない」とならないのと同様である。 例えば「『法華経』の内容は事実か事実でないか」を議論するのではなく、長期間に数期に分けて連綿と『法華経』を作成し続けた大勢の人々がいたのは事実であり、「その人々は『法華経』の物語で何を伝えたかったのか」を考える必要があり、その物語の中に全ての人を救う価値がある。現在では「大乗非仏説」は単なる事実を示すだけで、価値の有無を表すものではない。

だが、異論も有る。上記の論には信仰が絡んだ上での考証であるという点に注意しなくてはならない。 上記に於いての説が正しいと言えるのは三国伝来の大乗経典を漢文に翻訳中、信仰心から来る作為的な改竄が一切ないと言う大前提の下でなくてはならない。現代はイギリス経由・インド直送など飛行機に乗って原典が飛ぶ時代である。しかも、研究者はその文献に信仰心を持たずに文献学上から研究する者も多く、信仰心から来る作為的な曲解が起こり難いと思われるのである。 どれが正しいのかは受け手に委ねられる訳であるが、少なくとも一旦は信仰を置いて、自らが依って立つ教典の源を辿ってみる作業は、正しい仏教の理解の助けになるのであり、ここに大乗非仏説の真の意味が隠されているのである。

現在では、阿含経典に対しても、その全てが仏説ではないとされている。例えば中村元は「サーリプッタに説いたブッダの教えはいったいどこにいってしまったのか」という疑問を述べており[2]、増谷文雄も「ブッダがサーリプッタに説いた宗教的深遠な教えは、阿含部経典よりも多かったに違いない」という見解を述べている[3]。さらに中村元は、著書の中で最初期の仏教が縁起真如を説いていたことを紹介している[4]が、上座部、説一切有部が縁起を時間的生起関係からのみ解釈したのに対して、最初期の仏教は縁起を存在論的な観点から説いていたことになる。この縁起に真如を見るという思想は、一切衆生悉有仏性という大乗の教えそのものである、といった解釈も主張されている。

もちろん、このことは大乗経典が全て釈迦の直説であるということを意味するものではない。各大乗経典には後世に付加された疑いの極めて濃い部分が含まれていることも事実である。ただし、後世に付加されたと思われる部分が含まれているのは、大乗非仏説を主張する側の者が尊重するパーリ語経典にも共通する問題である。また、後世に付加されたと思われる部分が各大乗経典の法理を構成する部分でない限り、各大乗経典の思想を歴史上の釈迦が説いた説ではないと断定することはできないという点にも注意する必要がある。

しかし、「一切衆生悉有仏性」や本覚といった大乗仏教特有の教理は、元来の釈迦の思想とは相容れないものである、とする見解もある。

[編集] インドの口伝の伝統との関係

近世以降の大乗非仏説には、宗教に関するインド人の伝統を無視している、との批判がある。 それによれば、「インドでは古来、宗教の聖典は口伝によって伝承し、文字にして残さないという伝統があった。よって、釈迦が大乗仏教を説いていたとしても、釈迦の死の直後に文字に記されなかったことはむしろ当然であり、釈迦の死の直後に記された大乗経典の実物が発見されていないことは大乗仏教が仏説ではないことの根拠にはならない」とするものである。具体例を挙げると、

  • バラモン教の聖典ヴェーダは、14世紀後半に南インドにおいて文字で記されるまで、一切の教えを口伝によって伝承していた[5]
  • 中国の僧法顕は、399-414年にインドを旅行したが、経典はもっぱら口伝され、文字と書が用いられないことを伝えている[6]。釈迦の入滅は紀元前480~380年とされているので、法顕がインドを訪問した時点で釈迦の死から800~900年前後が経過していることになるが、その時点に至ってもまだインド仏教においては口伝が行われていたということになる。
  • 大乗非仏説は経典が文字に記された時期を主たる根拠としているが、上記のようにインドには聖典を文字に記さないという伝統があったため、釈迦が生前に説いた大乗仏教を弟子たちが文字に記さなかったとしても、何ら不自然ではないということになる。
  • また、ある大乗経典の内容に後世に付加された要素があるとしても、それがその経典の主要な法理を構成する部分でない限り、その大乗経典が釈迦の直説を含んでいないということを意味するものではない。
  • 大乗仏教の主要な法理の芽は既に上座部仏教の中にも見られる[7]ので、後世に付加された部分を除く大乗仏教を釈迦が説いていたという推論も成り立つ。
  • 以上のように、大乗非仏説は、その前提としている事実(=文字に記した経典の成立時期や内容に対する後世の影響)と結論(=大乗経典は釈迦の直説ではない)との間に論理的なつながりが無く、前提事実から結論に至るまでの間に論理が飛躍している。

同じ前提事実から推論を開始しても異なる説明・結論が成り立つので、大乗非仏説は論理的必然性の無い非常に根拠の弱い学説であるとするのが、大乗非仏説を問題視する立場の見解である。

しかし、この主張の決定的な問題点は、口承伝承をもっぱら重んじる「宗教に関するインド人の伝統」は、出自が不明確な大乗仏典がなぜ仏説として流通しえたのかの説明にはなっても、大乗非仏説そのものを否定する論拠にはなり難く、また大乗経典とパーリ語経典の成立時期に大きな差があることを合理的に説明する論拠ともなりえない点である。また、文字に記されなかっただけで、釈迦も大乗仏教を説いていたに違いない、といったような推論に多くの部分を負っている。

この、成立時期の大きな時間差については、根本分裂前の教団が、後に大乗仏教と呼ぶ部分を理解してもらうために方便として広める必要のある物から順に文字化されただけだという意見もあるが、あくまで推論の域を出ない。 大乗仏教の側から「小乗仏教」と呼ばれ、大乗の経典を否定する上座部仏教の主張では、上座部の一部が経典を文字化した理由は大乗経典のような勝手な経典の創作からこれまでの経典を守るためであったとされている。

[編集] その他

日本では江戸時代の富永仲基加上説や、明治期の村上専精などの学者による「大乗非仏説論」などがある。

[編集] 大乗非仏説に対する扱い

[編集] 伝統教団

日本の仏教界では、いずれかの宗派に属する僧侶でもある研究者は、大乗仏典は価値があり自分の信仰の基盤であることを認めた上で、文献学的考証に基づく仏教思想や経典の歴史的展開を事実として受け取っており、教団として出される布教文書にまで仏教思想の歴史的発展について記述する例も見られる。この結果、歴史上の釈尊の教え、大乗仏教の教え、それの発展である宗祖(法然、親鸞、道元、日蓮、一遍…)の教えをどのように受け止めたら良いかの課題がある。ただし、一般の仏教徒にとっては、宗祖の教えが中心になるので、特に相違が意識されることはない。

中国ブータンモンゴル(含む内蒙古ブリヤートトゥバカルムイク)、ネパールなど、他の大乗仏教圏諸国では、信者ではない人々による勝手な営為として扱われ、信仰をゆるがす問題としては受け取られていない。

[編集] 仏教系新宗教教団

原理主義色が強い仏教系新宗教教団では、これらの批判を無知な学者による根拠無き誹謗中傷として退ける場合が多い[要出典]

[編集] 脚注

  1. ^ 密教経典の一部には阿閦仏(あしゅくぶつ)が説いたとされるものもあるが、阿閦仏を釈尊の化身と見なすことで、究極的には全ての経典について、釈尊が説いたものと見なされる。
  2. ^ 『中村元選集 決定版 13 仏弟子の生涯』(春秋社 1991年10月発行)参照。
  3. ^ 『仏教の思想(1)~智慧と慈悲・仏陀』(角川書店)参照。
  4. ^ 『龍樹』(講談社 2002年6月発行)参照。
  5. ^ コーサンビー『インド古代史』岩波書店p.113
  6. ^ 中村元『ヴェーダの思想』p.49、『高僧法顕伝』大正蔵no.2085第51巻p.864
  7. ^ 「自性清浄心、客塵煩悩」(増一阿含経)など。

[編集] 外部リンク