埼玉桶川スカイダイビング墜落事故 (1969年)

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埼玉桶川スカイダイビング墜落事故(さいたまおけがわスカイダイビングついらくじこ)は、1969年12月15日埼玉県桶川町(当時)で発生したスカイダイビングの死亡事故[1]。スポーツ・スカイダイビングで日本で初めて起きた死亡事故でもある[2]。以後、事故被害にあったスカイダイバーをAと表記する。

事故背景[編集]

Aが属していたスカイダイビング・クラブは、本事故の起きる直前の1969年7月に発足したばかりで[1]、社会人が中心であった[1]。本拠地は調布飛行場であったが[1]、スカイダイビングを行なうには手狭であったため、ホンダエアポートや千葉県習志野市の陸上自衛隊第一空挺団の施設を利用していた[1]。Aは、この時、降下6回目[1]で自動索降下によるトレーニング期間中であった[1]

自動索降下[編集]

自動索降下とは、リップコード[注釈 1]に自動索とよばれるロープを取り付け、この自動索を飛行機に引っ掛けておき、スカイダイバーが飛行機から飛び出すと、自動索が伸びきり自動的にパラシュートが開くようにしたものである[3]。自動索降下は事故当時、初心者に対する一般的なトレーニング方法であった[3]。またリップコードには減速用の誘導傘がついていた[1]。Aはメインパラシュートの他に予備パラシュートも装着していた[1][2]

事故状況[編集]

天候[編集]

事故のあった日の天候は、桶川町近くの熊谷の午前9時の地上の気象観測データによると、快晴、気温は1.4℃、北西の風、風速0.5m/sであった[4]

事故の概要[編集]

Aを含む10人が1969年12月15日、午前7時30分ごろ、セスナ機でホンダエアポートを離陸した[1]。インストラクターの指導のもと、自動索降下で、高度700メートルから空港滑走路の延長上にあるオーバーランの芝生の上に降下する訓練を行う予定であった[1]

この時、Aは女優の應蘭芳とペアを組んでおり[1]、應蘭芳が降下した後に、続いて降下を始めた[1]。しかし、パラシュートが開かず、補助パラシュートも使用しないまま[5]芝生の上に墜落した[1]。即死だった[1]

事故の原因[編集]

Aがセスナ機から降下を開始直後、通常の姿勢とは異なり、背中が下になってしまった[2]。その時誘導傘が脇の下に挟まり[2]、またメインのパラシュートを抱えてしまったため、予備パラシュートを開く動作ができなかったと推定される[2]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ パラシュートを開くために引く紐のこと

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 読売新聞東京夕刊1969-12-15記事11社会面 (1969, pp. 11)
  2. ^ a b c d e 航空情報1976年9月臨時増刊号スカイスポーツ (1976, pp. 90)
  3. ^ a b 航空情報1976年9月臨時増刊号スカイスポーツ (1976, pp. 89)
  4. ^ 気象庁 過去の気象データ検索”. 2014年9月21日閲覧。
  5. ^ 死のスカイダイビング パラシュート開かず『朝日新聞』1969年(昭和44年)12月15日夕刊 3版 11面

参考文献[編集]

  • “死のスカイダイビング”. 読売新聞夕刊 (東京): p. 11. (1969年12月15日) 
  • 笹島穣 (1976-09). “スカイダイビング”. 航空情報 臨時増刊 スカイスポーツ (酣燈社) 364: 78-92. ISSN 04506669. 

関連項目[編集]