城田憲子

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城田 憲子(しろた のりこ、旧姓:湯沢、1946年7月4日 - )は、元日本スケート連盟フィギュアスケート強化部長、元アイスダンス選手。立教大学文学部心理学科卒業。姉は元フィギュアスケート選手である湯沢恵子

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[編集] 経歴

アイスダンスの選手として1965年1966年全日本選手権を2連覇。現役引退後は審判の道に進み、「ISUレフェリー」の国際審判員資格を持っている(フィギュアスケート種目、アイスダンス種目)。日本国内の数々の競技会においてもテクニカルコントローラー演技審判を務めてきた。

1995年日本スケート連盟理事に就任、1997年に同フィギュアスケート強化部長に就任し、長野五輪ソルトレイク五輪トリノ五輪の3大会で監督を務めた。独自の強化育成方針に基づき「全国有望新人発掘合宿(野辺山合宿)」や「全日本強化合宿」、ノービスからの国際試合派遣システム立ち上げを通して選手の強化に取り組んだ[1]

2006年3月、当時日本スケート連盟会長だった久永勝一郎による不正会計問題が発覚し、城田も責任を取る形で2006年6月に理事を辞任した。

以後、日本スケート連盟からの要請により活動を自粛していたが、2008年2月に行われた日本スケート連盟の理事会にて一部の活動が容認され、同年11月20-23日に行われる2008-2009シーズンのロシア杯にジャッジとして派遣されることとなった。[2]

2009年2月、織田信成村主章枝両選手の要請などを受けたフィギュア委員会からの提案により、日本スケート連盟理事会は四大陸フィギュアスケート選手権日本代表のアシスタントチームリーダーとして派遣することを決め、公的な連盟活動と役職への復帰を認めた[3]。更に同年3月の世界フィギュアスケート選手権にも支援スタッフとして派遣される予定で、再び選手強化の現場に登場することになった。

[編集] 日本のフィギュアスケート強化への関与

1992年アルベールビルオリンピックにて金メダル確実といわれた伊藤みどりが銀メダルに終わったことから、一人の突出した才能に全てを背負わせていた従来のやり方を反省。同年より「第二の伊藤みどりを育てよう」のスローガンのもと、8歳~12歳の子どもスケーターを集めての長野県野辺山で才能発掘合宿がスタート。海外の有力コーチを積極的に日本に招致するなど、優秀な選手を多く育てて選手層を厚くし、全員で世界を狙っていく強化方法を行っている。

日本選手の成績を上げるためには多少強引とも言える手段も高じなかった[要出典]。例えば伊藤みどりサラエボオリンピックに出場するための条件を満たす可能性を上げるために1984年世界ジュニア選手権札幌に招致したことや、[要出典]年齢制限のためトリノオリンピックに出場できなかった浅田真央が初めて出場する世界選手権を日本で開催するために2007年世界選手権を東京に誘致した[4]

[編集] 脚注

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