地球フライバイ・アノマリー

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地球フライバイ・アノマリー(ちきゅうフライバイ・アノマリー、Earth flyby anomaly)または地球フライバイ異常(ちきゅうフライバイいじょう)は、太陽を巡る人工天体が地球のそばを通過(フライバイ)して軌道を変更するとき、その速度が理論予測と有意に食い違う原因不明の現象をいう。 1990年以降、いくつかの太陽系探査機において観察されている[1]。 単にフライバイ・アノマリーフライバイ異常とも表される。 パイオニア10号11号探査機の予測外の減速であるパイオニア・アノマリーとともに現在のところ原因不明の現象であり、それらが関連した未知の現象である可能性から、単なるソフトウェアの誤りである可能性までその原因について議論をよんでいる。

現象の認識[編集]

過去の主な地球スイングバイとアノマリー[2][3]
探査機 日付 速度増加異常値*
観測値 経験式
mm/s mm/s
ガリレオ 1990-12-08 3.92±0.3 4.12
ガリレオ 1992-12-08 −4.6±1.0 −4.67
NEAR 1998-01-23 13.46±0.01 13.28
カッシーニ 1999-08-18 −2±1 −1.07
ロゼッタ 2005-03-04 1.80±0.03 2.07
メッセンジャー 2005-08-02 0.02±0.01 0.06
ロゼッタ 2007-11-13 有意でない < 1
ロゼッタ 2009-11-13 有意でない
* 双曲線無限遠点速度に換算したときの速度増加の異常値。
† アンダーソンによる経験式[2]を当てはめたときの予測値。

惑星間に飛び出した太陽系探査機などの人工天体にとってスイングバイ(重力アシスト)、すなわち惑星など自分よりはるかに大きな質量を持つ天体に接近しエネルギーを受け取る(もしくは与える)ことで軌道変更を行う方法は、欠くことのできない重要なものである。 望ましい軌道変更のためには、スイングバイを行う探査機がその惑星のそばへと正確に接近する必要があり、そのため接近前後の探査機の位置と速度は地上から継続的に追跡されている。 探査機速度の視線方向成分を知るためには、探査機からの電波のドップラー偏移が測定される。 計算値と一致しないアノマリーはこのドップラー偏移で最初に見出された。

最初のアノマリーは、木星への入り組んだ長い旅の過程にあったNASAガリレオ探査機が1990年12月に地球でのスイングバイを初めて試みた後に認められた[4]。 このスイングバイはほぼ成功したものの、記録されたドップラー・データを詳細に分析すると、接近後、観測値と計算値との間にわずかな食い違いがあることが判明した。 この食い違いは地球から十分離れたときの探査機の速度に換算すれば 3.92 mm/s だけの余分な増大を意味していた[5]。 エネルギーにしてこれは100万分の1程度の小さなズレであったが、誤差は十分小さいと見積もられたため、このズレに関しジェット推進研究所 (JPL) などで調査が行われた。 しかし満足な説明を与えるような原因は見出されなかった。

2年後の1992年12月にガリレオ探査機は2度目の地球によるスイングバイを行った。 しかし、このときには高度およそ 300 km という低い軌道での接近であったため、上層大気での抵抗による減速で覆い隠され当初こうしたアノマリーは明確に認められなかった。 ところがその後、小惑星の探査を目指した NEAR が1998年に行った地球スイングバイで 13.46 mm/s の大きな増大が観測され、このとき以来、地球フライバイ・アノマリーは現実の問題としてクローズアップされることになった[4][5]。 さらに、欧州宇宙機関彗星探査機ロゼッタの2005年3月のスイングバイでも 1.8 mm/s 程度の増大が見られたことが報告された[6]。 説明のつかない食い違いはドップラー・データと同様に、探査機との電波の送受信の時間を精密に測定するレンジング・データでも認められ、何らかの見かけ上の誤りではない可能性が高まった。

一方で、1999年の土星探査機カッシーニによる地球スイングバイでは、接近時に行われたスラスター噴射の影響もありこの現象ははっきりせず、2001年の彗星探査機スターダストにおいても同様であった。 さらに2005年8月の水星探査機メッセンジャーの分析からはこうした有意な速度のズレはまったく認められなかった[5]。 また、2007年11月と2009年11月のロゼッタによる地球スイングバイでも有意なズレは観測されなかった[3]。 なお2006年現在、日本はやぶさ等に関しての分析は報告されていない[7]

現在のところこうした食い違いが見つかっているのは地球に対するスイングバイにおいてのみである。 他の惑星や衛星で同様のことが起こっているかどうかは、観測精度やモデルの精度の問題があり明らかではない[1]

説明の試み[編集]

このフライバイ・アノマリーの原因について様々な可能性が検討され、また除外されてきた[7]。 まず地球の上層大気による抵抗の影響は探査機を減速する方向に働き、さらに多くの場合接近した高度では十分小さいので除外された。 潮汐によって海や地殻が変形することによるわずかな重力の変化も探査機には十分小さな影響しかおよぼさない。 地磁気が探査機の速度にここまで作用するほど探査機が帯電したり磁気モーメントを持つことも考えられなかった。 その他、地球からの反射光による放射圧太陽風の影響も小さく、通信電波の光子スピンと探査機・地球の自転とによりドップラー偏移がわずかに影響を受けるという現象(スピン‐回転カップリング)[8]でもないとされた。 地球の自転が時空を引きずる一般相対論的効果(慣性系の引きずりframe-dragging) も検討されたが、やはりこの現象を説明するほどの大きさが得られるとはみなされていない[1][9]

こうした既存の物理学によって考えうる様々な可能性が再検討されたものの、原因は明らかとならず、同時に未知の現象の可能性も含めた検討もなされてきた。 まず、これまで提案されているいくつかの非標準的な物理理論により説明が可能かどうか検討されたが、このアノマリーを十分に説明できるようなものは見出されていない[4]。 一方このアノマリーを受けて、地球の周辺に濃い暗黒物質の雲がたまっていると仮定した理論[10]や、慣性アンルー効果 (Unruh effect) を結びつける理論[11]など新たな枠組みによる説明も提案されている。 また、パイオニア探査機で明らかになっているパイオニア・アノマリーとこの現象との関係も疑われた。 一見して両者は大きく異なった現象であるが、パイオニアが木星や土星でスイングバイを行ったものであることにも注目して議論されている[5]

2008年に JPL のジョン・アンダーソン (John D. Anderson) らは様々にデータを検討した末に、探査機が地球に近づくときおよび遠ざかるときの進行方向の赤緯、すなわち赤道面に対してなす角度がこの効果と相関していることを見出した[2][12]。 アンダーソンらが導いた経験式によれば、効果は接近が南北に対称なときなど、これらの赤緯の大きさが等しいときに 0 となり、食い違っているときほど大きくなる[13]。 この式の背後の物理的機構は不明のままであるが、メッセンジャーのスイングバイにおいてアノマリーが現れなかったのは、その軌道が南北に対称なものであったことが重要であることを式は示唆していた。 また2回目のガリレオのスイングバイやカッシーニのスイングバイにおいてその後見積もられた負の速度変化とも矛盾しない値を与えた。

一方で、アンダーソンらの式を受けて、それがよく知られた特殊相対論的なドップラー効果 (横ドップラー効果transverse Doppler effect) だけで説明できる見かけ上のものだという指摘もなされ[14]、少なくとも一部の軌道解析ソフトウェアのミスである可能性が示唆された。 ただしその場合にはレンジング・データでも食い違いがあると思われることや、JPL とは別の機関の分析でもアノマリーが示されていることの説明として十分ではなく議論が継続している。

出典・注釈[編集]

  1. ^ a b c Chown, Marcus (2008-09-20). “Do fly-by anomalies reveal new physics at work?”. New Scientist (2674): 38–41. http://www.newscientist.com/article/mg19926741.800-do-flyby-anomalies-reveal-new-physics-at-work.html?full=true. 
  2. ^ a b c Anderson, John D.; James K. Campbell, et al. (2008). “Anomalous orbital-energy changes observed during spacecraft flybys of Earth”. Physical Review Letters 100: 091102. doi:10.1103/PhysRevLett.100.091102. 
  3. ^ a b Mystery remains: Rosetta fails to observe swingby anomaly”. Rosetta Blog. ESA (2009年11月23日). 2010年5月20日閲覧。
  4. ^ a b c Antreasian, Peter G.; Joseph R. Guinn. “Investigations into the unexpected delta-v increase during the earth gravity assist of Galileo and NEAR” (PDF). AIAA/AAS Astrodynamics Specialist Conference and Exhibit (Boston, 10–12, Aug. 1998). paper no. 98-4287. http://trs-new.jpl.nasa.gov/dspace/bitstream/2014/20322/1/98-1237.pdf 
  5. ^ a b c d Anderson, John D.; James K. Campbell, Michael Martin Nieto (2007). “The energy transfer process in planetary flybys”. New Astronomy 12: 383–397. doi:10.1016/j.newast.2006.11.004.  (arXiv: astro-ph/0608087)
  6. ^ Morley, T.; F. Budnik (2006). “Rosetta navigation at its first Earth swing-by” (PDF). Proceedings of the International Symposium on Space Technology and Science. 25. pp.593–598. http://archive.ists.or.jp/upload_pdf/ISTS_2006-d-52.pdf 
  7. ^ a b Lämmerzahl, C.; O. Preuss, H. Dittus (2006). “Is the physics within the solar system really understood?”. Proceedings of the 359th WE-Heraeus Seminar on “Lasers, Clocks, and Drag-Free: Technologies for Future Exploration in Space and Tests of Gravity”  (arXiv: gr-qc/0604052)
  8. ^ Mashhoon, Bahram (2002). “Modification of the Doppler effect due to the helicity-rotation coupling”. Physics Letters A 306: 66–72. doi:10.1016/S0375-9601(02)01537-2.  (arXiv: gr-qc/0209079v2)
  9. ^ Iorio, Lorenzo (2009). “The effect of general relativity on hyperbolic orbits and its application to the flyby anomaly”. Scholarly Research Exchange 2009: ID 807695. doi:10.3814/2009/807695.  (arXiv: 0811.3924)
  10. ^ Adler, Stephen L. (2009). “Can the flyby anomaly be attributed to earth-bound dark matter?”. Physical Review D 79: 023505. doi:10.1103/PhysRevD.79.023505.  (arXiv: 0805.2895)
  11. ^ McCulloch, M.E. (2008). “Modelling the flyby anomalies using a modification of inertia”. Monthly Notices of the Royal Astronomical Society: Letters 389 (1): L57–L60. doi:10.1111/j.1745-3933.2008.00523.x.  (arXiv: 0806:4159)
  12. ^ Alexander, Amir (2008年2月28日). “Planetary News: 2008 — Researchers investigate new cosmic mystery: The flyby anomaly”. The Planetary Society. 2009年1月26日閲覧。
  13. ^ 探査機の軌道を、それと接する双曲線軌道に当てはめたとき、漸近的な進入・離脱赤緯をそれぞれ δi, δo とすると、この式は ΔV / V = K (cos δi − cos δo) と表される。 ただし左辺は双曲線無限遠点速度 (hyperbolic excess velocity) で表したアノマリーの割合である。 比例係数 K は、K ≈ 3.099 × 10−6 で、これは地球の自転角速度 ω と赤道半径 R とを用いて、 K = 2 ω R / c と表されるとされる。 ただし、c は光速度。
  14. ^ Mbelek, Jean Paul (2008). “Special relativity may account for the spacecraft flyby anomalies”. (preprint).  (arXiv: 0809.1888)

関連文献[編集]

  • ニート, M. M., J. D. アンダーソン、川勝康弘 訳「地球フライバイ異常」、『パリティ』第25巻第9号、丸善、2010年9月、 50–53。 (Nieto, Michael Martin and John D. Anderson (2009-10-10). “Earth flyby anomalies”. Physics Today 62: 76–77.  arXiv: 0910.1321).

関連項目[編集]