善養院 (世田谷区)

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善養院
所在地 東京都世田谷区新町2丁目5番12号
位置 北緯35度37分49秒 東経139度39分2.4秒 / 北緯35.63028度 東経139.650667度 / 35.63028; 139.650667座標: 北緯35度37分49秒 東経139度39分2.4秒 / 北緯35.63028度 東経139.650667度 / 35.63028; 139.650667
山号 家岳山[1]
宗派 曹洞宗
本尊 釈迦如来像[1][2]
創建年 元和2年(1616年)[1]
開山 豪徳寺第2世門解蘆関大和尚[3]または明壺麟鏡和尚[2]
開基 大場豊前守義陸[3]または家嶽善養庵主[2]
中興年 明治8年(1875年)[3]
中興 大場真成和尚[3]
正式名 家岳山善養院[1]
札所等 世田谷20番観世音霊場[4][5]
文化財 善養院本堂並びに庫裏(世田谷区登録有形文化財)[6][7][8]
法人番号 9010905000242 ウィキデータを編集
善養院 (世田谷区)の位置(東京都区部内)
善養院 (世田谷区)
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善養院(ぜんよういん)は、東京都世田谷区新町にある寺院。曹洞宗に属し、豪徳寺末寺として元和2年(1616年)に創建されたと伝えられる[1][3]江戸時代明治時代の計2回、火事で全焼したが、明治8年(1884年)に再建された[1][3][9]。本堂及び庫裏は、平成20年(2008年)に世田谷区登録有形文化財に登録された[6][7][8]

この寺院には、古狸と和尚が意地を張り合う「善養院のちんちろりん」という昔話が伝わっている[1]

歴史[編集]

善養院は大山街道の南に位置する[2][4]。江戸時代後期の文政11年(1828年)に成立した地誌新編武蔵風土記稿』巻之四十八、荏原郡之条では、「本堂七間に五間[10]なり、(中略)薬師堂本堂の向にあり」と記述し、所在地については「世田ケ谷村枝郷新町村」とし、傍らに稲荷社の小祠があるとしている[2][11][12]

明治5年(1872年)の『禅臨済宗・禅曹洞宗・禅黄檗宗本末一派寺院明帳II』及び明治10年(1877年)の『曹洞宗明細簿』によれば、元和2年(1616年)に大場豊前守義陸という人物が開基し、門解蘆関(承応3年2月13日遷化)[3]承応2年(1653年)10月に開山した。蘆関は豪徳寺第2世であり、善養院は豪徳寺の末寺である[1][3][4]。開基と開山について、『新編武蔵風土記稿』巻之四十八、荏原郡之条では「開基ハ家嶽善養庵主トイヘリ」、「開山ハ明壺麟鏡和尚。寛永九年九月十二日寂セリ」と記述している[2]。ただし、「家嶽善養庵主」という人物のことについては「イカナル者ニヤ、ソノ詳ナルコトヲ伝ヘズ」とも記述しており、詳細は不明である[2]

善養院は寺伝によれば、万延元年(1860年)2月と明治5年(1872年)の2回、火事で全焼した[1][4][9][11]。万延元年の火事の後、檀家の人々は寄付を募り、文久3年(1863年)に再建を果たした[4]。この時に記された『旦中勧化取立覚帳』という書類があり、当時の檀家の人々の尽力を知ることができる[4]。しかし、明治5年にまたも火事で焼失したため廃寺となった[1][4][9][13]

明治8年(1875年)8月、当時の住職大場真成和尚が豪徳寺第27世大溪雪厳和尚の援助を受けて善養院を再建した[3][14]。善養院の本堂は、寺伝によると豪徳寺境内にあった井伊家墓参の休憩所(照心堂)を譲り受けて再建したものとされていた[1][11]。豪徳寺側の資料では、照心堂は休憩所ではなく経蔵であり、明治7年(1874年)から明治9年(1876年)の間に豪徳寺所有の不動産から書類上除去された上で、末寺の善養院に移築されたと推定されている[11][15][16]。その他に雪厳は如意輪観世音菩薩木像や誕生仏、香炉や半鐘などを寄付するなど、寺の整備に大きな役割を果たした[3]

善養院の本堂は、昭和10年(1935年)に総工費4万2,000円をかけ、台湾ヒノキ材を使用して新築されたため、旧本堂は世田谷区1丁目の勝光院(曹洞宗)に移築された[1][16][17]。善養院は、世田谷20番観世音霊場とされている[4][5]

境内と文化財[編集]

平成2年(1990年)竣工の山門をくぐると、本堂再建供養塔や萬霊塔が目に入る。これらの塔の奥には30体以上の地蔵菩薩像が祀られている。それぞれの地蔵像は制作された年代や姿が異なっていて、古いものは天和(1681年 - 1683年)、元禄(1688年 - 1704年)、享保(1716年 - 1735年)、宝暦(1751年 - 1763年)、安永(1772年 - 1780年)、寛政(1789年 - 1800年)などの年号が読み取れる[4]。地蔵像の脇には、イチョウの大木と釈迦堂が存在する[4]

本堂正面には山号の「家岳山」を書した扁額が掲げられている。本堂脇には、大きな壺が置かれている。この壺は、江戸時代に使われていた「壺棺」であるという[9]。善養院の本堂と庫裏は、新興住宅地に残る数少ない第2次世界大戦前の寺院建築として貴重な作例であり、平成20年(2008年)、世田谷区登録有形文化財に登録されている[6][7][8][16]。境内墓地には、『お富さん』『別れの一本杉』などのヒット曲で知られる歌手の春日八郎の墓がある[1][18]

善養院のちんちろりん[編集]

善養院には、和尚と古狸が意地を張り合う「善養院のちんちろりん」という昔話が伝わっている。

その昔、いたずら好きの古狸がいて、毎朝善養院のお供え物を盗み食いしていた。和尚は古狸のいたずらに手を焼き、ある日先手を打ってお供え物を隠してしまった。次の朝、和尚が勤行しているとどこからか「和尚さんのちんちろりん」という声が聞こえてくる。和尚は古狸の意趣返しだな、とすぐに気づき「狸のちんちろりん」と言い返した。古狸も負けずに「和尚さんのちんちろりん」と言い返し、憎まれ口の応酬が長々と続いた。夕方には、古狸の声が小さくなりやがて聞こえなくなった。和尚が様子を見に行くと、おなかがすきすぎた古狸は本堂裏で死んでいたという[1]

交通[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『改訂・せたがやの散歩道』132-133頁。
  2. ^ a b c d e f g 『史料に見る江戸時代の世田谷』63頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j 『世田谷区寺院台帳』、137-140頁。
  4. ^ a b c d e f g h i j 『ふるさと世田谷を語る 深沢・駒沢三-五丁目・新町・桜新町』126-128頁。
  5. ^ a b AGCレポートvol32.2010年1月27日 (PDF) 日本山岳会山岳地理クラブ、2012年7月29日閲覧。
  6. ^ a b c ◇平成21年第1回定例会(平成21年1月13日(火)開催分)-◇平成21年第24回定例会(平成21年12月22日(火)開催分) (PDF) 世田谷区役所ウェブサイト、2012年7月30日閲覧。
  7. ^ a b c 文化 (PDF) 世田谷区役所ウェブサイト、2012年7月30日閲覧。
  8. ^ a b c 昭和50年からの区政等のあゆみ (PDF) 世田谷区区政概要2011、2012年8月2日閲覧。
  9. ^ a b c d 世田谷区 善養院 PORTAL TOKYO 東京ガイド、2012年8月2日閲覧。
  10. ^ 仏堂、神社本殿等の規模を示す「間」は長さの単位ではなく柱間の数を意味する。
  11. ^ a b c d 『世田谷区文化財報告書-20-』1頁。
  12. ^ 新編武蔵風土記稿 世田ヶ谷村枝郷新町村.
  13. ^ 『ふるさと世田谷を語る 深沢・駒沢三-五丁目・新町・桜新町』では、2回目の焼失を明治7年(1874年)のことと記述している。
  14. ^ 『せたがやの散歩道』などでは再建を明治17年(1884年)のこととしているが、ここでは『世田谷区寺院台帳』及び『世田谷区文化財調査報告書-20-』の記述に拠った。
  15. ^ 『史料に見る江戸時代の世田谷』38頁。
  16. ^ a b c 『世田谷区文化財報告書-20-』5頁。
  17. ^ 『ふるさと世田谷を語る 深沢・駒沢三-五丁目・新町・桜新町』では、本堂の新築を大正14年(1925年)から2年間の間と記述している。
  18. ^ 名墓録 (所在地別) 矢島俯仰ホームページ、2012年8月2日閲覧。

参考文献[編集]

  • 「世田ヶ谷村枝郷新町村」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ48荏原郡ノ10、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763982/11 
  • 世田谷区教育委員会『世田谷区文化財調査報告書-20-区登録有形文化財 善養院本堂並びに庫裏 調査報告 善養院所蔵仏涅槃図について』2011年3月。ISSN 0919-6374
  • 世田谷区総務部文化課文化行政係『ふるさと世田谷を語る 深沢・駒沢三-五丁目・新町・桜新町』1991年。
  • 世田谷区区長室広報課『改訂・せたがやの散歩道 一歩二歩散歩』1995年。
  • 下山照夫編『史料に見る江戸時代の世田谷』岩田書院、1994年。 ISBN 4-900697-19-2 
  • 世田谷区教育委員会『世田谷区寺院台帳』1984年。

外部リンク[編集]