唐古・鍵遺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
唐古・鍵遺跡(からこ・かぎ・いせき)は奈良盆地中央部、標高約48メートル前後の沖積地、奈良県磯城郡田原本町大字唐古及び大字鍵に立地する弥生時代の環濠集落遺跡。
現在知られている遺跡面積は約30万平方メートル。規模の大きさのみならず、大型建物の跡地や青銅器鋳造炉など工房の跡地が発見され、話題となった。平成11年(1999年)に国の史跡に指定され、ここから出土した土器に描かれていた多層式の楼閣が遺跡内に復元されている。
全国からヒスイや土器などが集まる一方、銅鐸の主要な製造地でもあったと見られ、弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落ではないかと見られている。
目次 |
[編集] 遺跡の変遷
[編集] 弥生時代前期
- 集落の形成
- 遺跡北部・西部・南部の小高い丘に居住域が形成される。
- 各居住区はおよそ150×300メートルの範囲を有していた。そこからは、多数の鍬や鋤の農耕具、斧の柄などの工具、高杯や鉢などの容器類の各種未製品の木製品が多数検出された。この期の石包丁の石材は遺跡の南方6キロにある耳成山からの流紋岩であった。原石から石包丁までの製作の過程のものが出土している。このようなことから、この集落の形成時期から様々な道具を造り、その周辺の地域に供給する集落であったと推定されている。
- 弥生時代としてはもっとも古い総柱の大形建物跡が検出されている。[1] この建物は、西地区の中枢建物と推定。
[編集] 弥生時代中期
- 集落の分立(中期初頭)
- 集落の統合(中期中葉)
- 3か所の居住域の周りに大環濠を掘削し、一つの居住域に統合する。(長径約500メートル、短径約400メートルの不整円形)
- 内側の環濠は幅8メートル以上、その大環濠を囲むように幅4~5メートルの環濠が4~5重に巡らされる多重環濠。これらの多重環濠群は居住区の外縁を幅150~200メートルで囲み、環濠帯を形成している。各居住区の内部は未調査であるが、村の西南部に河内や近江、紀伊など各地の搬入土器が多く出土する市的な場所、また、南部では木器の未成品や青銅器鋳造関連遺物や炉跡、北部ではサヌカイトの原石や剥片が纏まって出土する所などがあり、各種工人の居住の場所と推定される。南地区の中央部に高床建物がたっていた可能性が高く、中枢部と考えられる。このようなことから大環濠内では、各種の機能別に区画されていたと考えられている。
- 中期後半
- 楼閣などの建物・動物・人物の絵画を土器に描く風習の確認。
- 洪水により環濠が埋没。
[編集] 弥生時代後期
- 集落の発展
- 中期後半から末にかけての洪水後に環濠再掘削が行われ、環濠帯の広さも最大規模となる。洪水で埋没したにもかかわらず、この期に再建された。ここに唐古・鍵遺跡の特質がみられる。
- 集落南部で青銅器の製作。
[編集] 古墳時代前期
- 集落の衰退
- 大環濠の消滅。
- 環濠の一部再掘削。弥生時代を通しての環濠集落を放棄したにもかかわらず、古墳時代の初めに再度環濠集落をも形成する。ここに唐古・鍵遺跡の特徴があると、考えられている。
- 弥生時代前期と同様に、三個所の地区(西・北・南)を中心に居住遺構が検出されている。次の時期には遺構数も増加する傾向にある。
- 井戸などの遺構が減少していることから、居住域が規模が縮小していることがわかる。
[編集] 古墳時代後期以降
- 集落の消滅
- 遺跡中央部に前方後円墳が造られ、墓域となる。
- 唐古・鍵池が造られる。
- 遺跡周辺が水田となる。
[編集] 主な遺構
- 弥生時代中期初頭の大型建物跡を検出。
- 銅鐸の工房跡ではないかとみられる弥生時代の青銅器鋳造炉跡の検出。
[編集] 主な遺物
- 大阪府西部・滋賀県南部・三重県から愛知県西部・岡山県南部など各地の搬入土器が出土。
- 木棺墓1基から弥生人の成人男性の人骨を検出。
- 絵を描いた土器が多数出土。
- そのうちの二つの土器の破片に「楼閣」が描かれている。楼閣とは、2階建て以上の高い建物のこと。巻き込んだ屋根飾りを付けた建物が6棟あり、格式の高い建物である。その中でも「楼閣」は巻き込んだ屋根飾りがたくさん付いているので一番格式の高い建物であることが推測できる。建物の絵を描いた土器は西日本の各地で46例見つかっており、そのうち15例がこの遺跡から出土した土器で、屋根飾りを付けた建物の絵はこの遺跡で6例、隣村の清水風(天理市)で1例あるのみ。
- 絵画土器 - 弥生土器にヘラ状の道具で描いた線刻画。弥生時代後半、近畿地方を中心に出土する。最多出土が本遺跡で300点。次いで清水風遺跡約50点。祭祀用の土器と考えられている。水壺・酒壺などの液体貯蔵用土器に描かれている。画題は、建物・人物・鹿など。
- 大型勾玉が2個入った褐鉄鉱(かつてっこう)容器が出土。
- ヒスイ製勾玉(新潟県糸魚川市周辺のものが原料)
- 石庖丁(いしぼうちょう)
- 木製農耕具
- 埋没古墳の検出。前方後円墳
- 動物の骨(イノシシ、イヌ、ブタ)
- 銅鐸片・銅塊・銅滓・鋳型の外枠[3]・送風管・被熱土器片
[編集] 脚注
- ^ 梁行き7メートル、桁行き13.4メートル以上の南北棟建物で、独立棟持柱をもつ。残っている柱は直径0.6メートルのケヤキ材3本と棟持柱がヤマグワ。
- ^ 稲作に伴って移入されたと考えられている。祭殿として出現する。
- ^ 内側に精錬された粘土を貼り付けたもの。それまでの鋳型は石製であるが、この土製鋳型外枠を採用することによって、さらに大きな銅鐸を鋳造、さらに鋳型製作時間の短縮・容易さを確保でき、鋳型技術の革新がみられる。
[編集] 参考文献
- 『日本の考古学』奈良文化財研究所編 学生社 2007年 ISBN 978-4-311-75037-3