唐邕

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唐 邕(とう よう、生没年不詳)は、中国南北朝時代官僚政治家は道和。本貫太原郡晋陽県[1][2][3]

経歴[編集]

唐霊芝の子として生まれた。532年太昌元年)、推薦を受けて高歓に仕え、直外兵曹をつとめ、記録を管掌した。筆記や計算を得意とし、記憶力に優れていたため、事務能力を認められて、高澄の下で大将軍府参軍に抜擢された。549年武定7年)、高澄が晋陽で殺害されると、高洋が夜間に唐邕を召し出して差配させたが、その対処が迅速だったため、唐邕は高洋に重んじられるようになった。北斉が建国されると、文宣帝(高洋)は連年のように出征したが、唐邕は必ずつき従って、軍事の機密を管掌した。556年天保7年)、羊汾堤で講武がおこなわれると、唐邕は諸軍の節度を総べるよう命じられた。講武が終わると、宴射の礼を取り仕切った[4][2][3]559年(天保10年)、文宣帝に従って晋陽に赴き、給事黄門侍郎・中書舎人を兼ねた[5][6][3]

560年乾明元年)、常山王高演大丞相となると、唐邕は相府司馬を代行した。同年(皇建元年)、給事黄門侍郎に任じられた[7]天統初年、侍中并州大中正に任じられ、さらに護軍の任を加えられた。後に趙州刺史として出された[5][6][7]568年(天統4年)10月、尚書右僕射に任じられた[8][9][10]571年武平2年)2月、尚書左僕射に転じた[11][12][13]572年(武平3年)2月、尚書令となり[14][15][16]、晋昌王に封じられた[17][6][7]574年(武平5年)2月、高思好の乱を討ち、録尚書事となった[18][19][20]

576年(武平7年)、北周武帝率いる親征軍が侵攻してくると、北斉の丞相の高阿那肱が防戦の指揮に当たったが、唐邕が高阿那肱の命じる分遣を引き受けなかったため、両者の関係は険悪化した。高阿那肱は斛律孝卿を派遣して唐邕を譴責した。後主が晋陽に入ると、斛律孝卿が騎兵の財務を担当して、唐邕の意見が聞き入れられなかったため、唐邕はますます鬱屈した。後主が平陽の戦いに敗れた後、狼狽して鄴都に逃げ帰ると、唐邕は高阿那肱や斛律孝卿らと袂を分かち、晋陽に留まって、莫多婁敬顕らとともに安徳王高延宗を皇帝に擁立した。信宿城が陥落すると、唐邕は北周に降り、儀同大将軍の号を受けた。のちに北周の鳳州刺史となった[17][21][22]開皇初年に死去した[23]

逸話[編集]

  • 文宣帝が童子仏寺に登ったとき、并州の城を望んで「これはどの程度の城か」と訊ねると、ある人が「これは金城湯池であり、天府の国です」と答えた。文宣帝は「わたしは唐邕を金城といっているので、これは金城ではないな」と言った。このように文宣帝は唐邕を重んじていた[5][6][24]
  • 羊汾堤での講武の日、文宣帝は自ら唐邕の手を取って、婁太后に引き合わせると、丞相の斛律金より上座に置いて、「唐邕は強幹で、1人で1000人に相当します」と太后に申し上げた[25][2][3]
  • 唐邕は文宣帝から1日に6度の賜物を贈られたことがあり、帝自ら着ていた青鼠の皮裘を脱いで贈られたこともあった[26][27][3]
  • 北斉では月例とは別に月に3回軍民に狩猟を教習させていたが、人馬が疲弊してきたため、唐邕は毎月2回に改めるよう奏上し、武成帝に聞き入れられた[5][6][7]
  • 唐邕が趙州刺史となると、武成帝は「朝臣には侍中・護軍・中正を兼ねながら州刺史となった者はいなかった。このたび卿にこのような兼任をさせたのは、異例のことだ。卿に百余日の休息を与えて、秋になれば即座に卿を呼び戻そう」と言った[28][6][7]

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子女[編集]

  • 唐君明(開府儀同三司。隋の開皇初年に応州刺史として死去した)[30][31][23]
  • 唐君徹(唐倹の父。中書舎人。隋の戎順二州刺史。大業年間に武賁郎将として死去した)[30][31][23]
  • 唐君徳(唐邕が北周に降ったため処刑された)[30][31][23]

脚注[編集]

  1. ^ 氣賀澤 2021, p. 508.
  2. ^ a b c 北斉書 1972, p. 530.
  3. ^ a b c d e 北史 1974, p. 2001.
  4. ^ 氣賀澤 2021, pp. 508–509.
  5. ^ a b c d 氣賀澤 2021, p. 510.
  6. ^ a b c d e f 北斉書 1972, p. 531.
  7. ^ a b c d e 北史 1974, p. 2002.
  8. ^ 氣賀澤 2021, p. 128.
  9. ^ 北斉書 1972, p. 101.
  10. ^ 北史 1974, p. 290.
  11. ^ 氣賀澤 2021, p. 131.
  12. ^ 北斉書 1972, p. 104.
  13. ^ 北史 1974, p. 292.
  14. ^ 氣賀澤 2021, p. 132.
  15. ^ 北斉書 1972, p. 105.
  16. ^ 北史 1974, p. 293.
  17. ^ a b 氣賀澤 2021, p. 511.
  18. ^ 氣賀澤 2021, p. 135.
  19. ^ 北斉書 1972, pp. 107–108.
  20. ^ 北史 1974, p. 295.
  21. ^ 北斉書 1972, pp. 531–532.
  22. ^ 北史 1974, pp. 2002–2003.
  23. ^ a b c d 北史 1974, p. 2003.
  24. ^ 北史 1974, pp. 2001–2002.
  25. ^ 氣賀澤 2021, p. 509.
  26. ^ 氣賀澤 2021, pp. 509–510.
  27. ^ 北斉書 1972, pp. 530–531.
  28. ^ 氣賀澤 2021, pp. 510–511.
  29. ^ 北史 1974, p. 521.
  30. ^ a b c 氣賀澤 2021, p. 512.
  31. ^ a b c 北斉書 1972, p. 532.

伝記資料[編集]

参考文献[編集]

  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4