和田寿郎
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和田 寿郎(わだ じゅろう、1922年(大正11年)3月11日 - )は日本北海道札幌市生まれの心臓血管外科医。ワダ弁(人工心弁)の開発、日本初の心臓移植手術を執刀したことで著名。ただし、この心臓移植は後に「和田心臓移植事件」として倫理を問われた。心臓移植の際にドナーとレシピエントをともに殺したのではないかという強い疑いをかけられ、殺人罪で刑事告発されている(不起訴処分)。
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[編集] 概説
医学の道を志し、旧制札幌一中から北海道大学予科を経て、同大学医学部を1944年に卒業した。当時の医学者としては珍しく積極的にマスコミを利用し、自分の研究成果や手術を発表していた。ベン・ケーシー式の白衣をいち早く取り入れ、当時札幌医科大学では胸部外科以外の医師達はまだ長袖の白衣を着用しており、院内関係者は一目見ただけで胸部外科の医師だと分かったという。アメリカ留学の間に培った合理主義を重んじ、自らの髪の毛は、短髪に刈り上げ、それは手術中に髪が落ちないようにとなるべく汗をかかないようにとの配慮だったという。涙もろく、患者の中にはファンも少なくなかったと言われているが、一方で1968年8月8日に札幌医科大学で執刀を行った心臓移植に関しての、その強引ともされかねない行為が問題となるなど、功名心が強かったとも評されている。
[編集] 心臓外科医としての歩み
1950年に北大医学部講師を辞め、アメリカへ4年に亙る留学をする。ミネソタ州立大学、オハイオ州立大学胸部外科、ハーバード大学などで研鑽を積む。ミネソタでは、世界初の心臓移植を執刀した南アフリカのクリスチャン・バーナードと知己を得、さらに犬を使った動物実験で画期的な成功を収め、その後も世界の心臓移植を牽引し続けたノーマン・シャムウェイともここで知り合った。
1954年に帰国。和田の母校である北大医学部は彼の復帰を受け入れなかった。それ以来、旧帝国大学系医学部に敵愾心を抱くようになったとも言われている。初代学長大野精七の招きで新設されたばかりの北海道立札幌医科大学助教授に就任。
1958年に同医大に胸部外科が創設されると、36歳の若さで初代胸部外科教授となった。当時画期的だった人工弁「ワダ弁」を自身の考案によって開発し、弁置換術において日本一の実績を誇った。なお「ワダ弁」は、後にバーナードによる世界初の心臓移植手術にも用いられている。論文の数と術例の豊富さで、歴史と伝統を誇る北大医学部第二外科に対抗した。その後も人工心肺の心内直視下手術(開心術)における使用時間の向上とともに、心臓外科における未知の領域を開拓していった。例えば1968年には大血管完全転移症に対する根治手術のひとつであるマスタード手術に日本で初めて成功している。同年、心臓移植手術も執刀。戦後の日本の心臓血管外科をリードし続けた東大の木本誠治、東京女子医大の榊原仟らに次ぐ地位を築き、1977年にはその榊原の招きで彼の後任として東京女子医大附属日本心臓血圧研究所教授に転任。退官後、和田寿郎記念心臓肺研究所を開設し、現在に至る。
[編集] 主な経歴
- 1944年 北海道大学医学部卒業(首席)
- 1944年 北海道大学医学部第二外科入局、同大特別研究生、「凍傷の研究」で医学博士
- 1947年 北海道大学医学部第二外科講座講師
- 1950年 ガリオア留学生としてアメリカ合衆国へ留学
- 1954年 札幌医科大学外科学講座助教授
- 1958年 札幌医科大学第二外科(胸部外科)教授
- 1968年 札幌医科大学で心臓移植手術を行う(和田心臓移植事件)
- 1977年 東京女子医科大学日本心臓血圧研究所外科学教授
- 1987年 定年後、和田寿郎記念心臓肺研究所を開設し同所長
- 1988年 国際心臓胸部外科学会会頭
[編集] 親族
和田寿郎の父は、国際法をアメリカで学んだ、元北大教授の和田禎純。和田寿郎の弟の和田淳も、ブリティッシュ・コロンビア大学の医学者で、ワダテスト(wada test,大脳の言語優位半球の判定法、てんかん等の脳外科手術で用いられる)の開発者として著名。

