呉カン

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本来の表記は「呉晗」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。
呉晗
プロフィール
出生: 1909年8月11日
死去: 1969年10月11日
出身地: 清の旗 浙江省義烏県
職業: 政治家・歴史家
各種表記
繁体字 吳晗
簡体字 吴晗
拼音 Wú Hán
和名表記: ご かん
発音転記: ウー ハン
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呉晗(ご かん)は中華人民共和国政治家歴史家

浙江省義烏県に生まれる。黄埔軍官学校清華大学を卒業、卒業後清華大学にとどまり歴史学(明史)を講じた。中国民主同盟に加入した後に、中国共産党に入党する。

中華人民共和国成立後は北京大学人文科学部長、北京市副市長を務める。当時中国では『清史』編纂が計画され清史研究の立ち遅れと研究者の不足が問題となっていた。このため呉が中心となって、清代の歴史研究の重点化と専門的な研究者の育成の体制づくりが行われた。

1961年、戯曲「海瑞罷官」を発表するも、1965年姚文元によって「毛沢東海瑞の諫めを聞かずに解任した愚かな皇帝になぞらえた」として「海瑞罷官」が批判される。これをきっかけに北京市副市長を解任され文化大革命の端緒となった。その後の文化大革命の本格化により迫害を受け投獄、獄中で死去する(死因不明とされるが自殺説が有力)。妻も同様に獄死し、養女も精神を病み精神病院で自ら命を絶った。