呂文徳

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呂 文徳(りょ ぶんとく、? - 咸淳5年12月2日1269年12月26日))は、南宋末期の将軍。弟に呂文煥呂文信中国語版呂文福がいる。

生涯[編集]

安豊の人。もとは薪割りであったが、軍に入り累進。身体が大きく色黒で、「黒灰将軍」と渾名された。騎督を経て、オゴデイ・カアン時代のモンゴル南征時に東路軍と戦い軍功を挙げた。後に四川制置使、荊湖安撫制置使、鄂州知州に任じられた。

四川制置使時代には当時の部下であった劉整を讒言し、モンゴルに走らせるなどの失策もあったが、開慶元年(1259年)にモンゴルのモンケクビライ兄弟らによる大規模な侵攻が行なわれた際には、鄂州でクビライの攻撃を防いだ。これらの功で、咸淳3年(1267年)に少傅に任じられる。クビライが即位し、咸淳4年(1268年)からアジュ史天沢らを大将とした大規模な遠征軍を派遣すると襄陽樊城の包囲に為すところが無かったために、引責辞任。間も無く病を経て没した。

一説にはモンゴルの間諜により、内通の嫌疑をかけられたともされるが、詳らかになったはいない。