原在明

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原 在明(はら ざいめい、安永7年8月1日1778年[注釈 1]9月21日) - 天保15年6月15日[注釈 2]1844年7月29日))は、江戸時代後期に活躍した絵師。名は初め近義、のちに在明。字は子徳、号に写照。

略伝[編集]

原派の絵師・原在中の次男として京都で生まれる。兄の原在正は早熟で画技に優れていたこともあり、在明は寛政3年(1791年)までに縫殿寮史生地下家・伊勢家に養子に出される。養家で同年10月26日に正七位下に叙され、同5年(1793年10月10日若狭目に任じられ、同12年(1800年7月24日従六位下に進む。享和4年(1804年2月7日に在明に改名、文化3年(1806年)兄在正が勘当されたため、在明が原家の2代目を継いだ。それからまもなく、養家の家名も伊勢から原に変えている。文化4年(1807年)には江戸日光へ下っており、同年8月19日永代橋落橋事故では、近くにいたが幸い難を免れている。天保4年(1833年)10月、東大寺別当勧修寺門跡済範入道親王の近習として、正倉院開封に立ち会い、宝物の記録図制作を行った(現在宮内庁書陵部蔵)。

天保5年(1834年12月22日史生と官位を辞め、同日改めて正六位下に叙され、内舎人に任じられた。同年在明は、春日大社の式年造替で御用を務める「春日絵所」職の株を、同じ京絵師・勝山琢山から第三者の手を経て45両で譲り受けており(ただし名義は在照)、これが正六位下・内舎人叙任に作用した可能性がある。春日絵所は、在明以後も原家に引き継がれる。翌6年(1835年)大和介を兼任するが、これには父・在中の強い意向があり、春日絵所獲得と合わせこの頃の原家の大和志向がうかがえる。天保7年(1836年)には内匠大允も兼ね、同11年(1840年孝明天皇立太子に伴い啓内舎人に補され、同13年(1842年)正六位上に進んだ。有職故実を松岡辰方と山田以文に学び、故実に精通した。天保15年(1844)没、67歳。

在明には実子・在謙がいたが別の地下官人・右馬寮大島家に養子に出しており、養子の原在照が跡を継いだ。こうした変則的な相続の理由は、地下官人の養子となることで家格の向上を図り、宮中や貴族社会での地盤を固めて、絵の御用を獲得するためだと考えられる。また絵を発注する側にとっても、画技は無論無視できない要素だが、それと同じくらい家格や由緒も重要で、原家の選択は多くの絵師がひしめく京都で生き残るための一つの方策といえる。

代表作[編集]

作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 落款・印章 備考
関白家礼拝退出図 絹本著色 双幅 関白家拝禮之儀:131.0x55.2
任大臣訖退出之儀:131.4x55.4
城端別院善徳寺(南砺市 款記「内舎人大和介平在明」/「平印在明」白文方印・「子徳」白文方印 善徳寺には鷹司政煕鷹司政通鷹司輔煕の3代が賛を書いた「秋月賛歌」3幅対が所蔵され、本作との関連が想定される[2]
三保松原図屏風 六曲一双 一様院 1836年(天保7年)以降 落款・右隻「内匠大允平在明」[3]
牡丹孔雀図 禅林寺
獣魚絵合わせかるた 霊鑑寺 原在中との合作
石清水八幡臨時祭礼図巻 3巻 徳川美術館 1836年(天保7年)以降 俊恭院福君(徳川斉温夫人)が輿入れの際の婚礼調度のひとつ。文化10年(1813年)に再興された岩清水臨時祭の記録図。
石清水臨時祭再興図絵 宮内庁書陵部 同じく岩清水臨時祭の記録図
光格天皇譲位 宮内庁
新嘗祭之図 宮内庁
新嘗祭 京都府立総合資料館
雲龍図 絹本墨画 1幅 132.5x70.9 ボストン美術館
節句図 絹本著色 1幅 大英博物館 款記「在明」

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 一説に天明元年(1781年)生。安永7年生まれだと兄・在正と同年生まれとなり矛盾するようにも見える。しかし、この時代必ずしも在明と在正を同母兄弟だと考える必要はなく、『地下家伝』などの公的記録では安永7年説を取るため、取り敢えずこれに従う。
  2. ^ 『地下家伝』では6月16日没になっているが、これは15日に没し、翌16日に「今暁」死去したと届け出たために生じた誤りである[1]

出典[編集]

  1. ^ 原家文書」『雑記』京都府立総合資料館
  2. ^ 富山市佐藤記念美術館『とやまの寺宝 : 花鳥山水お寺に秘された絵画たち : 特別展』富山市佐藤記念美術館、2014年、第18図頁。全国書誌番号:23217040https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I029667685-00 
  3. ^ 『日本屏風絵集成 第8巻 花鳥画 花鳥・山水』 講談社、1978年5月。

関連文献[編集]