危機の二十年

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危機の二十年』(The Twenty Years' Crisis 1919-1939)とは政治学者歴史家であり外交官でもあったエドワード・ハレット・カーによる国際政治学の著作である。この著作は、ヨーロッパで第二次大戦が勃発する直前の1930年代に執筆され、第1版が戦争勃発の直後である1939年9月に刊行され、1945年に第2版を刊行された(日本語訳は第2版から)。なお第2版ではヒトラーに対する宥和政策に好意的な箇所が削除されている。

概要[編集]

国際政治学の歴史を概観すれば、そこには理想主義現実主義の交代が認められる。元来、伝統的な政治学はイデアなどの理想的な理念で政治秩序を論じていたが、近代において功利主義道徳哲学や利益調和の政治経済学の思想的な展開に伴って現実政治にも理想主義の政治学原理が適用された。世界政府や自由民主主義などの政治理念を生み出した理想主義は1919年パリ講和会議国際連盟設置などを契機に具体化されていった。

しかし1919年の理想主義的な国際政治学は次第に衰退していくことになる。理想主義者は国際政治から権力を除外すべきであると考えていたが、1939年第二次世界大戦が発生した時には権力を排除した政治理論は現実への適応性を失っていた。現実主義は理想主義に対する批判を強めると理想主義が掲げる政治秩序を現実政治の観点から解体した。軍事力、経済力、また世論を支配する能力は政治秩序の態勢を左右することを論じた。結果として理想主義は破綻を余儀なくされ、全体主義の台頭と国際的な利益調和の喪失が生じた。本書の問題意識は国際政治を再び秩序化するためにどのような基盤が求められるのかを考察することである。カーは国際政治の新秩序を考察するために権力と道義の二つの原理から考え始める。

権力がもたらす政治闘争の現実という課題と、道義がもたらす政治統合の理想という願望を考えれば世界経済再建が非常に有望な提案と考えられる。なぜならば権力が国際政治を支配する限りでは危機が深刻化するものの、権力闘争が解決されれば道義の役割が回復されて秩序が安定するためである。経済的な利益は道徳的な正義と等しくないが、経済的利益を独占しようとする傾向を諸国家から軽減すれば、各国の外交政策を協調へと方向付けることが可能となるのである。

カーへの応答[編集]

『危機の二十年』は、出版後、国際関係研究において不可欠の著作となった。学部教育課程で依然として広く講読されており、伝統的現実主義の基本テキストの一つと考えられている[1]。『危機の二十年』が数多くの研究に刺激を与えた。国際関係論の学説の盛衰を概観した『危機の八十年』の序論で、編者の3人(マイケル・コックスティム・ダンケン・ブース)は、「カーの『危機の二十年』における議論とジレンマの多くが今日の国際関係の理論と実践に関連している」と指摘する[2]

しかし、カーへの応答は決して肯定的なものばかりではない。en:Caitlin Blaxtonは、『危機の二十年』におけるカーの道徳的立場を批判した[3]。カーがいわゆる現実主義と理想主義の抗争を提示したことについて批判する研究者もいる。ピーター・ウィルソンによれば、「カーのユートピア概念は科学的概念として十分に練られたものではなく、きわめて便利なレトリック上の仕掛けである」[4]

『危機の二十年』のもつ複雑な性格について、近年、ジョナサン・ハスラム[5]、マイケル・コックス[6]、チャールズ・ジョーンズ[7]らの研究を含んだカーに関する数多くの文献によって理解が深まっている[8]

書誌情報[編集]

  • The twenty years' crisis, 1919-1939: an introduction to the study of international relations, London: Macmillan, 1939.
  • The twenty years' crisis, 1919-1939: an introduction to the study of international relations, 2nd ed., London: Macmillan, 1946.
  • The twenty years' crisis, 1919-1939: an introduction to the study of international relations, reissued with a new introduction and additional material by Michael Cox, Basingstoke: Palgrave, 2001.
日本語訳[9]
  • E.H.カー『危機の二十年 ― 國際關係研究序説』 井上茂譯(岩波書店「岩波現代叢書」、1952年)
    • E.H.カー『危機の二十年 ― 1919-1939』 井上茂訳(岩波文庫、1996年)
    • E.H.カー『危機の二十年 ― 理想と現実』 原彬久訳(岩波文庫、2011年)

出典[編集]

  1. ^ [1]
  2. ^ Tim Dunne, Michael Cox and Ken Booth. "Introduction the Eighty Years Crisis". The Eighty Years' Crisis. Cambridge: Cambridge University Press, 1998. p. xiii
  3. ^ Wilson, Peter. "The Myth of the 'First Great Debate'". The Eighty Years' Crisis. Cambridge: Cambridge University Press, 1998. p. 3
  4. ^ Ibid., p. 11
  5. ^ ジョナサン・ハスラム 『誠実という悪徳――E・H・カー 1892-1982』(角田史幸、川口良、中島理暁訳、現代思潮新社、2007年)
  6. ^ Michael Cox ed., E. H. Carr: A Critical Appraisal, (Palgrave, 2000).
  7. ^ Charles Jones, E. H. Carr and international relations: a duty to lie, Cambridge: Cambridge University Press, 1998.
  8. ^ 日本でもカーの再評価が進んでいる。『外交フォーラム』22(2)2009年の特集「 E・H・カー―現代への地平」のほかに、遠藤誠治「『危機の20年』から国際秩序の再建へ―E.H.カーの国際政治理論の再検討」「思想」945、2003年、西村邦行「E・H・カーにおけるヨーロッパ的なものの擁護―理論、歴史、ロシア」「法学論叢」166(5)、2010年、西村邦行「知識人としてのE・H・カー─初期伝記群と『危機の二〇年』の連続性」「国際政治」160、2010年、山中仁美「国際政治をめぐる「理論」と「歴史」―E・H・カーを手がかりとして」「国際法外交雑誌」108(1)、2009年、山中仁美「新しいヨーロッパ」の歴史的地平―E・H・カーの戦後構想の再検討」「国際政治」148、2007年、山中仁美「「E.H.カー研究」の現今の状況をめぐって」「国際関係学研究」29、2003年、山中仁美「E.H.カーと第二次世界大戦―国際関係観の推移をめぐる一考察」「国際関係学研究」28、2001年、角田和広「戦間期におけるE・H・カーの国益認識―独伊政策を焦点として」「政治学研究論集」28、2008年、角田和広「E・H・カーの『国際秩序』構想―平和的変革構想とその失敗」戦略研究学会編『戦略研究』第7号、2009年、清水耕介「世界大戦とナショナリズム―E・H・カーとアレントの見た一九世紀欧州」「アソシエ」16、2005年、細谷雄一「大英帝国の外交官たち(4)「新しい社会」という誘惑―E.H.カー」「外交フォーラム」16(5)、2003年。
  9. ^ なお訳書は、旧版訳書は、多数の誤訳や不適切な訳文が指摘され(山田侑平「岩波文庫あの名著は誤訳だらけ: 大学生必読『国際政治学の古典』は全く意味不明」。「文藝春秋」2002年4月号)、以後は「在庫なし」の状況となり、入手は困難だったが、2011年11月に新訳出版された。

関連項目[編集]