南部スーダン
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| 南部スーダン | |
南部スーダンの旗 |
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| 公用語 | 英語、アラビア語 |
| 首都 | ジュバ |
| 大統領 | サルバ・キール・マヤルディ 司令官 |
| 副大統領 | リエック・マチャル 博士 |
| 面積 | 597 000 km² |
| 人口 – 総計 (2005年) – 人口密度 |
推定 8,500,000 人 14 人/km² |
| 通貨 | スーダン・ポンド |
| 時間帯 | UTC+3 |
南部スーダン(なんぶスーダン)はスーダンの南部10州からなる地域である。2005年1月9日にケニアのナイバシャで結ばれた第二次スーダン内戦の包括的な暫定和平合意により、スーダン政府から自治を認められた。南部スーダンは東でエチオピア、南でケニア・ウガンダ、西でコンゴ民主共和国・中央アフリカと接する。北西はダルフール。
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[編集] 歴史
かつて南部の黒人達はアラブ系やダルフール(バール・エル・ガザル)などの奴隷商人による奴隷売買が行われていた。1821年にスーダンの北部はエジプトが、南部は1877年にイギリスが占領した。1898年にイギリスとエジプトによる共同統治が始まった。
1955年に南部で反乱が起き内戦が起きた。1956年にスーダン共和国として北部と南部が統一して独立したが北部の政治的経済的支配に南部の住民は不満を抱いていた。1972年にアディスアベバ合意により南部に制限付き自治権が与えられ、将来の南部の分離独立を問う住民投票も認められ南北の内戦は一時終結した。
1974年にシェブロンが油田を発見し、その多くが南部に分布していた。民族イスラム戦線の圧力も受け1983年にモハメド・アン=ヌメイリ政権は南部の自治権や将来の分離独立の住民投票を取り止め、シャリーアを導入してイスラム勢力の取り込みを図り、また石油資源の独占を図り南部の3つの州をそれぞれ分割した。そのためキリスト教徒も多い南部などで反乱が起こり、南部最大の部族であるディンカ族の出身のジョン・ガラン大佐を中心としたスーダン人民解放軍/運動 (SPLA/M) が北部の政権に対して反乱を起こし再び内戦が起きた。政権が交替しても内戦が続き、1989年にオマル・アル=バシールが政権を握るとイスラム政権に反対する政治勢力を抑圧し、SPLAを始めとする南部の反政府組織に対する戦争を拡大していった。南部での内戦は激化していったが、2002年にケニアで南北の和平交渉が成立し、南部は行政上の自治を6年間与えられ、そして北部で適用されているイスラム法も南部で適用しない事となった。さらに6年後にはスーダンの一部として北部と統一するのか分離独立するのかを決める住民投票も南部で行うこととなった。また同時にディンカ族のンゴック氏族の先住地アビエイの帰属も問われることとした。
[編集] 経済
南部での経済は内戦により荒廃しているが豊かな石油があり石油経済に将来性があると言われている。
[編集] 民族構成
民族構成はディンカ族が最も多く約100万人。他にもシルック人やヌアー人などのナイル系の民族がいる。西部はアゼンデ人とジュチャル人、南部からウガンダにアチョリ人やロツフ人がいる。
[編集] 宗教
スーダンの北部は「アラブ系」のイスラム教徒が多数を占めているが、それとは対照的に南部は主としてアニミズムの伝統宗教とキリスト教を信仰するアラブ系以外の諸民族である。
[編集] 言語
イギリス統治時代の影響で教育や北部との取引などで英語が幅広く使われている。ナイル系が多数派であり母語としてはディンカ語(英語)、ヌエル語(英語)が主な言語である。リングワ・フランカとしてピジン言語であるジュバ・アラビア語(英語)を話す。

