南町通 (仙台市)

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南町通から転送)
仙台市の道路事業においては仙台駅前から西公園通と接続する大手町までが南町通とされている[1]
JR仙台駅の屋上駐車場から撮影した南町通。写真の右方向は駅前通。(2009年7月)

南町通(みなみまちどおり)は、宮城県仙台市青葉区にある道路である。市道南町通1号線の一部と片平五橋通線の一部からなり、仙台駅西口バスターミナルから西公園通と接続する大手町4丁目までの区間を指す[2]仙台市の愛称命名道路の1つで、1982年(昭和57年)に命名された[1]。片側2車線の道路で、街路樹トウカエデである[3]

1887年(明治20年)の仙台駅開設に関連して、仙台駅前から西側の南町まで続く道路が南町通として整備されたのがこの通りの端緒である。仙台市電が走る道りでもあった。1932年(昭和7年)から1945年(昭和20年)までは軍人の多門二郎に因み多門通(たもんどおり)と改称され、戦後の占領期には進駐軍からメイプル・ストリートとも呼ばれた。

路線[編集]

青葉区一番町二丁目歩道橋から南東方向の写真。南町通りは写真の手前から左方向へ曲がる。直進すると五ツ橋通。(2005年7月)

仙台市の道路愛称事業では、市道南町通1号線の一部と片平五橋通線の一部を合わせて、仙台駅西口のバスターミナルから西公園通と接続する大手町4丁目付近までの区間が南町通とされている[2]。ただし資料によっては、南町通の西端を五ツ橋通との交差点付近とするものもある[4]

市道の南町通1号線(青葉1165)については、東端は仙台駅西口バスターミナルの北側にある仙台駅前交差点(青葉通りの西端)で、バスターミナルを経て、西端が五ツ橋通との交差点付近、仙台市道本荒町線(青葉1235)である。そこから西側の区間は、市道片平五橋通線(青葉1163)である。

歴史[編集]

現在の南町通と同じ道筋が17世紀からあったことは古地図から分かっており、道幅は1(1.8メートル)ほどの細い道であった。推定1664年寛文4年)の『城下絵図』および推定1669年(寛文9年)の『仙台城下絵図』では、東一番丁から東七番丁までの区間で確認出来る[5]。東一番丁より西には、やや筋違いに南側から南町を通り過ぎて本荒町まで道が見られる[5]。南町は芭蕉の辻から奥州街道沿いに南に延びる町で、現在の国分町通の一部にあたる。推定1678年延宝6年)- 1680年(延宝8年)の『仙台城下絵図』では、東端が東十番丁まで延長されているのが分かり、その先は寺社地を縫って榴岡天満宮門前に至る道が見受けられる[5]1833年天保4年)の『御城下町割絵図』でも延宝年間の『仙台城下絵図』と同様な道筋が見られるが、東二番丁から東七番丁までの区間では四ツ谷用水が流れていた様子が描かれ、また、南町を横切るやや筋違いの道は南町から東一番丁の区間のみが描かれている[5]。東一番丁から榴岡天満宮門前の道筋は、現在においては、JR仙台駅の西側では南町通だが、仙台駅の東側では宮城野通の1本北の細道[6]として残る。

1887年(明治20年)、東六番丁との交差部付近に日本鉄道の仙台駅が設置された。この時、道幅が9間(約16.2メートル)に広げられ、東一番丁までだった西端が1町西の南町まで延長された。やや筋違いだった南町から東一番丁間の細道は南町通の一部になったと見られる。仙台駅前から南町に繋がる道として「南町通」と命名された。なお、南町より西側のやや筋違いの道は、加川横丁(あるいは香川横丁)として残った。

1891年(明治24年)に大内屋の8代目である大内源太右衛門が街路樹を南町通に植えた[7][8]。これが仙台における街路樹の始まりである[9]1926年(大正15年)には仙台市電が開通し、この通りを1976年(昭和51年)まで通ることになった。市電開通に際して、道幅は12間(約21.8メートル)に広げられた。このとき、南町より西の加川横丁も同じ幅に広げられ、南町通に組み込まれ[10]、さらに西側に道を新設して片平丁に接続した。以上のような仙台駅設置と市電開通により、南町通は20世紀前半の仙台で中心的な街路の1つであった。

仙台に置かれた陸軍の第二師団は、満州に移駐するために1931年(昭和6年)4月仙台駅から出征した。駐屯地から各部隊が通った道はまちまちであったが、多門二郎師団長以下の師団本部は大町から芭蕉の辻で曲がって南町通を通った。その年のうちに満州事変が起こり、第二師団も戦った。師団が満州から引きあげるに際し、仙台市はその帰還を凱旋として歓迎する計画を立てた。発表された通路は名掛丁から大町を経て大橋を通る道と、南町通である。1932年(昭和7年)に東北帝国大学の5人の博士が師団長の功績を記念して多門通または多門町を仙台に設けることを市長に提案し、それを知った南町通の住民が改名を希望した。仙台市会がこれを認めて1月7日に改名を承認し、8日の師団凱旋を迎えた。当時、東北帝国大学の講師をしていた歴史学者の喜田貞吉は、個人の名を冠することに反対し、多門の自宅に談じ込んだ。話を聞いた多門はその通りと同意したが、それで市会の決定が覆ることはなかった[11]

1945年(昭和20年)に仙台に進駐したアメリカ軍は、南町通を「メイプル・ストリート」と呼んだが、市民は用いなかった。戦後、南町通の名が復活した。戦後の復興計画で、青葉通広瀬通定禅寺通が新たな主要道として整備された際、青葉通が最大幅50メートルで新設された一方で、南町通の拡幅は26メートルにとどまった。戦後も南町通は商業地として賑わうが、どちらかといえば官庁やオフィス中心であり、中心街路の地位は前記3つの通りに譲った。多門通が消えた後も、市道の正式名称は長く「市道多門通元常盤丁線」といったが、仙台市の政令指定都市移行を機に、1989年平成元年)3月22日に南町通1号線と改めた[12]

沿道の施設など[編集]

JR仙台駅西口ペデストリアンデッキから撮影した南町通(2022年9月)

かつて存在した施設[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 道路の愛称”. 仙台市. 2023年12月3日閲覧。
  2. ^ a b 道路愛称命名事業位置図(市内中心部)”. 仙台市. 2023年12月3日閲覧。
  3. ^ キッズ 百年の杜”. 2008年5月24日閲覧。[リンク切れ](街路樹マップなど)
  4. ^ 河北新報出版センター (2005, pp. 54–55)には、この定義で南町通が紹介されている。
  5. ^ a b c d 古絵地図”. 宮城県図書館. 2012年12月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年7月15日閲覧。
  6. ^ 該当する仙台市道は、宮城野1400号・榴岡二丁目2号線、宮城野1403号・榴岡三丁目2号線、宮城野1407号・榴岡三丁目6号線、宮城野1424号・榴岡五丁目6号線など。
  7. ^ 「あきんどの町」編集委員会 1984, p. 133.
  8. ^ 大内屋は1676年創業の呉服屋、後に服飾店として営業していたが2016年に廃業した。大内源太右衛門は『仙台鹿の子』の増補版を著している。
  9. ^ 仙台市史編さん委員会 2008, p. 413.
  10. ^ 畑井 2008, p. 159.
  11. ^ 畑井 2008, pp. 162–169.
  12. ^ 畑井 2008, p. 169.

参考文献[編集]

  • 「あきんどの町」編集委員会 編『あきんどの町 おおまちに至るまでの400年』おおまち商店街振興組合、1984年11月。全国書誌番号:86010550 
  • 河北新報出版センター 編『忘れかけの街・仙台 昭和40年頃、そして今』河北新報出版センター、2005年4月。ISBN 4-87341-189-0 
  • 仙台市史編さん委員会 編『仙台市史』 通史編6(近代1)、仙台市、2008年3月。全国書誌番号:21429454 
  • 畑井洋樹「「多門通」の誕生について 当時の新聞記事を中心に」『調査報告書』第26集 足元からみる民俗(16) 失われた伝承・変容する伝承・新たなる伝承、仙台市歴史民俗資料館、2008年3月。