南博

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南 博みなみ ひろし1914年7月23日 - 2001年12月17日)は、日本の社会心理学者。日本女子大学教授、一橋大学社会学部教授や成城大学教授を歴任。日本社会心理学会第3期・第9期・第10期理事長。

目次

[編集] 来歴・人物

1914年医師の子として東京市赤坂区田町(現在の東京都港区赤坂)に生まれる。父は南大曹日本医科大学教授、日本消化器病学会会長、財団法人癌研究会理事長、南胃腸病院院長)。石川千代松は祖母の弟[1]大倉喜八郎は叔母の祖父であり[2]林達夫も叔母の縁続きにあたる[2]

慶應義塾幼稚舎に学び福澤諭吉の影響を受ける。東京高等学校 (旧制) 尋常科から理科乙類を経て医師である父親の希望により医師を志すが、父の激務に恐れをなし[3]1937年東京帝国大学医学部中退、1940年京都帝国大学文学部哲学科卒、同年京都帝国大学文学部副手就任。母親の幼友達であった高木貞二(心理学者、東京大学教授)の推薦を受け、アメリカのコーネル大学大学院に留学しダレンバックに師事、1943年コーネル大学Ph.D.

日米開戦後は敵性外人として軟禁状態に置かれ、大学院修了後は日本への帰国を望んだが、入国ビザが下りずコーネル大学講師等を経て1947年に帰国。同年日本女子大学教授就任とともに、高木貞二の紹介で東京商科大学(現一橋大学)予科非常勤講師となる。1949年一橋大学専任講師、1950年同助教授、1958年同教授。一橋大学に国立大学で初めて社会心理学の講座を設け、1964年国際心理学会常任理事就任。1969年から1974年まで日本心理学会常任理事。社会心理研究所、伝統芸術の会、映画と心理の会を設立し、後にそれらを統合し日本心理センターとし、その所長を務めた。全日本気功協会会長。民主主義科学者協会でも活動。1962年文学博士(京都大学)。1978年一橋大学を定年により退官し同大名誉教授の称号を受ける。中華人民大学名誉教授。弟子の石川弘義の招きにより1978年から成城大学教授。1985年成城大学を定年退職。また俳優座の養成所でも教鞭をとり愛川欽也等を教えた。

1949年毎日出版文化賞

妻は新劇女優の東恵美子で、日本で早くから夫婦別姓婚を行なった夫婦としても知られた。その婚姻関係は「自由結婚」「別居結婚」「日本のサルトルボーヴォワール」などとも呼ばれ、マスコミなどでも話題になった。

戦後、アメリカ社会心理学を日本に導入し、国民性から大衆文化まで様々な社会現象の背景にある心理を解き明かし「日本人論」ブームをリードした。また、伝統芸能や映画、テレビ番組においても幅広く活躍した。

フラストレーションの訳語に欲求不満という言葉をあてた。

1999年まで原宿在住で、1999年から病気療養をかね国立がんセンター及び聖路加国際病院に近い佃島の高層マンション「センチュリーパークタワー」に移住。2001年肺炎のため死去。享年87。

[編集] 人物像

仕事に熱心なことで知られ、子どもの頃から毎日8時間以上勉強するのが習慣だった。父から「勉強しすぎて死んだ奴はいない」と教えを受けたという。生涯無休で仕事を行い、亡くなる直前まで口述筆記で著書を遺している。

[編集] ゼミ出身者

[編集] 著書

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ 南博『出会いの人生──自伝のこころみ』p.5、勁草書房2004年
  2. ^ a b 南博『出会いの人生──自伝のこころみ』p.11、勁草書房2004年
  3. ^ 南博『出会いの人生──自伝のこころみ』p.256(勁草書房2004年)では「私が父と同じ医学の道へと進まず、心理学へと転じたのは、医者であれば終生、『南家の二代目』といわれるだろうことに、耐えられなかったからである」と説明している。