千秋季忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
千秋四郎から転送)
 
千秋 季忠
生誕 天文3年(1534年
死没 永禄3年5月19日1560年6月12日
別名 通称:四郎
官位 加賀守
主君 織田信長
氏族 熱田大宮司千秋家藤原南家藤原氏
父母 父:千秋季光
兄弟 季直季広季忠
熱田浅井氏娘・たあ
季信
テンプレートを表示

千秋 季忠(せんしゅう すえただ)は、戦国時代武将熱田神宮大宮司織田氏の家臣。尾張国羽豆崎城(幡豆崎城)主。

生涯[編集]

天文3年(1534年)、熱田神宮の大宮司・千秋季光の子として誕生。千秋家は藤原季範の末裔で、長年にわたって尾張を中心に美濃三河に社領を広げていくうちに武士化し、16世紀頃の前半頃に新興勢力だった織田弾正忠家と結びついた[1]

父・季光は武士として織田信秀に仕えていたが、天文13年(1544年)9月、加納口の戦いで戦死し[2]、跡を継いだ長男の季直も間もなく夭折したため、弟の季忠が大宮司職と家督を継いだ[3]

永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いに参加。佐々政次と共に鷲津砦丸根砦を落とした今川義元軍と対峙していたが、織田信長善照寺砦に到着したのを見て義元本隊に攻撃を仕掛け、政次ともども討ち死にを遂げた[4]。この千秋・佐々の行動は、信長が奇襲を成功させるために命じた陽動作戦とされているが、藤本正行は単なる抜け駆けと解釈している[5]

季忠が戦死したとき、子の季信は母の胎内にあり、大宮司職は叔父の季重が襲っていたという[6]。その後、季信は母の実家である浅井氏のもとで養育され、14歳になった天正2年(1574年)、信長に拝謁し、大宮司職と遺領となる野並村(現在の名古屋市天白区野並)を継いだ。

逸話[編集]

  • 領地である羽豆崎近辺には海賊が出没し、家臣たちもそれと共謀して住民を苦しめていた。一計を案じた季忠は海賊の首領に「勧進で得た十万貫を渡すから、熱田社修復のための材木を紀州より運んでもらいたい」と持ちかけ、それを承諾した首領は部下全員を従えて出発するが、季忠はその隙を突いて海賊の本拠地を焼き払った。その後、季忠は約束通り代金を払おうとしたが、首領はそれを断り、ただ新たに住む場所を求めたので、季忠は彼らに遠江の鷲津浜に住居を与えた。以後、羽豆崎には海賊が出没しなくなったという(『武将感状記』)[7]
  • 父の季光は、父ではなく兄である可能性もあるが詳細は不明。

登場作品[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 谷口 1998, p. 93.
  2. ^ 太田牛一信長公記』 首巻 「景清あざ丸刀の事」
  3. ^ 谷口 1998, p. 94.
  4. ^ 『信長公記』 首巻 「今川義元討死の事」
  5. ^ 藤本 1997, p. 86.
  6. ^ 谷口 1998, p. 96.
  7. ^ 谷口 1998, p. 95.

参考文献[編集]

  • 藤本正行『信長の戦国軍事学』洋泉社、1997年12月24日。ISBN 9784896912944 
  • 谷口克広『信長の親衛隊 戦国覇者の多彩な人材』中央公論新社、1998年12月20日。ISBN 9784121014535