十字架上のキリストの最後の7つの言葉 (聖書)
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十字架上のキリストの最後の7つの言葉(じゅうじかじょうのきりすとのさいごのななつのことば)は、イエス・キリストが磔刑に処せられた際に十字架上で語ったとされる、福音書に記述されている七つの言葉。本項における順番は伝統的な解釈に則った。
ヨーゼフ・ハイドンやシュッツなどの作曲家がこのテーマで作曲を行ったとしても有名。十字架上のキリストの最後の7つの言葉を参照。
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内容 [編集]
第一の言葉 [編集]
- 「父よ、彼らを赦して下さい。なぜなら、彼らは何をしているのかわからないからです。」(ルカの福音書23章34節)
- 午前9時に十字架につけられた時の言葉である。このイエスの祈りは、有力な写本BやDにはない。故に新共同訳聖書では真正性を疑われるものとして、カッコ書きされている。しかし、ステパノの殉教の記事は本節を前提にしていること、ルカの神学とキリストの精神に調和していることから、伝統的解釈では、真正性を認めている。[1]
第二の言葉 [編集]
- 「アーメン、あなたに言います。あなたは今日私と共にパラダイスにいます」(ルカの福音書23章43節)
第三の言葉 [編集]
- 「ギュナイ、そこにあなたの子がいます」「そこに、あなたの母が」(ヨハネの福音書19章26節-27節)
- 母マリヤと弟子のヨハネに言った言葉で、ヨハネにマリヤを支えることを依頼したもの。これにより、ヨハネがマリヤを引き取ることになった。[2]イエスの言葉を聞いた、その時点から、ヨハネはイエスの本意を理解して、マリヤをつれて十字架のそばを離れて、エルサレムの自分の家につれていったと思われる。[3]
第四の言葉 [編集]
- 「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか。)」(マルコの福音書15章34節)「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(マタイの福音書27章46節)
- 三時時頃にキリストが大声で語った。大声と言うのは全地に響き渡っていくという意味がある。[4]詩篇22篇と関連のある言葉である。神への呼びかけは、マルコではアラム語の「エロイ」、マタイではヘブル語の「エリ」である。周囲の人々がエリヤを呼んでいると誤解したので、マタイの記述が一番近いと思われる。多くの解釈では、詩篇22篇からの引用であるとしているが、より少数の解釈では、詩篇22篇からの引用ではなく、神がイエスを見捨てた事を指しているとしている。伝統的にはイエスが事実上、罪人の身代わりになって罪の裁きを受けたことを表す叫びと解釈される。イエスが神を「父」とは呼んでおらず、審判される側に立ち、自己を罪人と完全に一つにして、神の裁きを受けているとされている。[5]
第五の言葉 [編集]
- 「私は渇いている(ディフォー)」(ヨハネの福音書19章28節)
- イエスは聖書が成就するために、この言葉を発した。これは、詩篇22篇16節、詩篇69篇22節もしくは詩篇42篇3節の成就であると考えられている。この言葉を兵士は、肉体的な渇きであると理解して、酸いぶどう酒を持ってきた。
第六の言葉 [編集]
- 「終わった(テテレスタイ)」(ヨハネの福音書19章30節)
- 兵士達が差し出した酸いぶどう酒を受けた直後に、この言葉を語った。これは、旧約聖書の預言をすべて成就して、贖罪の業を完成したという意味である。
第七の言葉 [編集]
- 「父よ、私の霊をあなたの手にまかせます」(ルカの福音書23章46節)
脚注 [編集]
- ^ 榊原康夫,『新聖書注解』「ルカの福音書」420項
- ^ 内田和彦「イエスの生涯」いのちのことば社、2001年
- ^ 村瀬俊夫、『新聖書注解』「ヨハネの福音書」535項
- ^ 中澤啓介『マタイの福音書註解』684ページ
- ^ 「新聖書辞典」いのちのことば社、1985年、216項
参考文献 [編集]
- レオン・モリス著、山口昇訳『新約聖書における十字架』、聖書図書刊行会、1977年
- ジェームス・ストーカー、村岡崇光訳『キリストの最期』いのちのことば社、1968年