北野天満宮
| 北野天満宮 | |
|---|---|
本殿(国宝) |
|
| 所在地 | 京都府京都市上京区馬喰町 |
| 位置 | 北緯35度01分52秒 東経135度44分06秒 |
| 主祭神 | 菅原道真公 |
| 社格等 | 二十二社・官幣中社・別表神社 |
| 創建 | 天暦元年(947年) |
| 本殿の様式 | 権現造 |
| 例祭 | 8月4日 |
北野天満宮(きたのてんまんぐう)は京都市上京区にある神社である。通称、天神さん・北野さん。旧社格は官幣中社、二十二社。京都市民からは「てんじんさん」の愛称で呼ばれる。
毎月25日に縁日が開かれ、多くの参拝者や観光客で賑わう。菅原道真を主祭神とし、特に学問の神として知られ多くの受験生らの信仰を集めている。京都市が大学の町であることもあってか、掲げられている絵馬には、大学受験合格を祈願するものが多い。福岡県の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心となっており、当社から全国各地に勧請が行われている。
目次 |
[編集] 祭神
菅原道真を主祭神とし、相殿に中将殿(道真の長子・高視)と吉祥女(道真の正室)を祀る。
[編集] 歴史
延喜3年(903年)、菅原道真が無実の罪で配流された大宰府で没した後、都では落雷などの災害が相次いだ。これが道真の祟りだとする噂が広まり、御霊信仰と結びついて恐れられた。そこで、没後20年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈った。天慶5年(942年)、右京七条に住む多治比文子(たじひのあやこ)という少女に託宣があり、5年後にも近江国の神官の幼児である太郎丸に同様の託宣があった。それに基づいて天暦元年6月9日(947年)、現在地の北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営された。後に藤原師輔(時平の甥であるが、父の忠平が菅原氏と縁戚であったと言われる)が自分の屋敷の建物を寄贈して、壮大な社殿に作り直されたと言う。
永延元年(987年)に初めて勅祭が行われ、一条天皇より「北野天満宮天神」の称が贈られた。正暦4年(993年)には正一位・右大臣・太政大臣が追贈された。以降も朝廷から厚い崇敬を受け、二十二社の一社ともなった。
中世になっても菅原氏・藤原氏のみならず足利将軍家などからも崇敬を受けた。だが、当時北野天満宮を本所としていた麹座の麹製造の独占権を巡るトラブルから文安元年(1444年)に室町幕府軍の攻撃を受けて天満宮が焼け落ちてしまい、一時衰退する(文安の麹騒動)。
天正15年(1587年)10月1日、境内において豊臣秀吉による北野大茶湯が催行された。境内西側に史跡「御土居」がある。
江戸時代の頃には道真の御霊としての性格は薄れ、学問の神として広く信仰されるようになり、寺子屋などで当社の分霊が祀られた。
1871年(明治4年)に官幣中社に列するとともに「北野神社」と改名させられる。「宮」を名乗るためには祭神が基本的には皇族であり、かつ勅許が必要であったためである。旧称の北野天満宮の呼称が復活したのは、戦後の神道国家管理を脱したあとである。
1912年には、京都駅との間で、京都市電堀川線(通称北野線)が走るようになった。また1958年までは、神社の前まで京福電気鉄道北野線が乗り入れていたが、京都市電今出川線建設のため、北野~白梅町間の路線を市電に譲る形で白梅町(その時北野白梅町駅と改名)止まりとなった。
[編集] 文化財
[編集] 国宝
- 本殿、石の間、拝殿、楽の間(合1棟)
- 紙本着色北野天神縁起 8巻(附 同縁起下絵1巻、梅樹蒔絵箱1合)
- 天神縁起を題材とした鎌倉時代の絵巻。詞書序文によれば鎌倉時代の承久年間の製作で、「根本縁起」または「承久本」と通称される。寸法は各巻それぞれ縦52.1センチメートル、全長は8.419メートルから12.116メートル。
- 天神縁起絵巻は菅原道真の栄華と左遷、道真の怨霊による都における変異と北野天神の利生記で構成され、天神信仰の成立に伴い数多く製作された。鎌倉初期の建久・建保年間には詞書のみの天神縁起が成立していたと考えられており、絵巻形式のものとしては承久本が最古とされている。天神縁起は詞書の文言から三種に分類され(梅津次郎による)、承久本は詞書のみによる縁起の最古本である建久本と同じく甲類に属すると考えられている。
- 作者は『倭錦』では似絵の完成者として知られる藤原信実としているが、製作年代とともに確証はない。各巻末には曼殊院良恕法親王による慶長4年(1599年)の奥書が見られ、それによれば承久本はそれまで所在が不明であったが北野天神目代の照世が泉南の念仏寺(堺市)において発見し、文禄5年(1596年)に堺代官石田正澄を介して奉納されたという。
- 天神絵巻は諸本により図像が大きく異なることで知られているが、承久本では巻一から巻五までには道真の生涯と藤原時平との対立、大宰府への左遷と憤死を描き、巻六では都における天変地異、巻七から巻八では日蔵六道巡りの説話が六道絵風に描かれ、絵巻はここで終わっている。本来はこの後に天満宮の縁起が描かれるが白描下絵のみが残されており、何らかの事情によって中断されたものと推定されている。
- 承久本は、通常は横置きにする料紙を縦置きにして繋いで、縦50センチを越える広大な画面を作り出している。このような幅広の絵巻の類例としては光明寺蔵『当麻曼荼羅縁起』がある。延長8年(930年)6月16日の清涼殿における落雷の様子を描いた巻六の場面では、中央に黒雲と雷神を配し、その左右に清涼殿の内部や庭において倒れ逃げ惑う公家の様子を描いた特徴的な構図が指摘される。
[編集] 重要文化財
- 中門(三光門)
- 廻廊 3棟
- 後門
- 透塀 2棟
- 東門
- 紙本着色北野天神縁起 弘安本 3巻
- 紙本着色北野天神縁起 土佐光信筆 3巻
- 紙本着色北野天神縁起 土佐光起筆 3巻
- 絹本着色舞楽図 2幀(とう)
- 紙本墨画雲龍図
- 板絵金地着色昌俊弁慶相騎図 長谷川等伯筆
- 木造鬼神像 13躯
- 太刀 銘安綱(鬼切)
- 太刀 銘備州長船師光応永九年(以下不明)
- 太刀 銘助守
- 太刀 銘恒次
- 刀 銘北野天満天神豊臣秀頼公御造営之寺于時慶長十二丁未十一月日信濃守国広造
- 日本書紀 28冊
- 紫紙金泥金光明経最勝王経 後宇多天皇宸翰
[編集] その他
[編集] 主な祭事
- 二十五日祭 - 毎月25日
- 筆始祭 - 1月2日
- 梅花祭 - 2月25日
- 祈願絵馬焼納式 - 4月19日
- 雷除大祭 - 6月1日
- 御誕辰祭 - 6月25日
- 御手洗祭・七夕祭 - 7月7日
- 例大祭 - 8月4日
- 瑞饋(ずいき)祭 - 10月1日~5日
- 余香祭 - 10月29日
- 献茶祭 - 12月1日
- 終い天神 - 12月25日
- 大晦日各行事 - 12月31日
[編集] アクセス
なお、当社の北門は桜の名所でもある平野神社にほど近く、北門から平野神社の中を通って西大路通の「衣笠校前」バス停に抜けることもできる。
[編集] 梅と牛
道真は梅をこよなく愛し、大宰府左遷の際、庭の梅に「東風(こち)吹かば 匂い起こせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ(「春を忘るな」とも)」と和歌を詠んだことや、その梅が菅原道真を慕って一晩のうちに大宰府に飛来したという飛梅伝説ができたことから、梅が神紋となっている。そのことにちなみ境内には梅が多く植えられている。(楼門外には梅林もあり、シーズン中は有料で公開される。) 梅の花の咲く頃は受験シーズンであるので受験生やその家族の参拝がもともと多いが、加えて観梅の観光客も多く訪れる。
牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされているが、その理由については「道真の出生年は丑年である」「亡くなったのが丑の月の丑の日である」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など多くの伝承があり、どれが真実なのか、それとも全て伝承に過ぎないのかは今となっては良くわからないものの、それらの伝承にちなみ北野天満宮には神使とされる臥牛の像が多数置かれている。伝承のうち「牛が刺客から道真を守った」というのは和気清麻呂を祭神とする護王神社や和気神社の猪の伝承との関連性が強く認められる。
[編集] 関連項目
- 天満宮(全国の天満宮の一覧あり)
- 天神信仰
- 天神川 (京都市)
- 上七軒(同項目の記載によると、室町時代に北野天満宮の再建の際に残った機材を使って7軒の茶店を建てたのが「上七軒」の由来という。)
- 国宝一覧
[編集] 外部リンク
- 北野天満宮ホームページ
- 北野天満宮 フリー写真