北朝鮮クーデター陰謀事件

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北朝鮮クーデター陰謀事件とは、一般には1992年に北朝鮮の軍部内で発生したクーデター陰謀事件であるとされているが、実際はKGB(ソ連国家保安委員会)による工作事件ともされている[1]事件のこと。「フルンゼ事件」「フルンゼ軍事大学留学組事件」とも呼称されている。

概要[編集]

朝鮮戦争後、北朝鮮とソ連は、ソ連の最高指導者であったニキータ・フルシチョフ第一書記が西側との協調路線に転向した事を受け関係が悪化していた。しかし、1985年から北朝鮮とソ連の間で軍事交流が始まり北朝鮮軍将校や幹部はソ連に留学。北朝鮮は軍の近代化へ向けた教育を受けたい半面、ソ連は自国の影響下に北朝鮮を縛っておきたいという両者の思惑があった[2]

KGBの作戦[編集]

KGBは近い将来に北朝鮮軍の首脳部となる将校らを掌握する必要があると考え

を作戦として実行。実に半数以上の留学将校たちをソ連の影響下に置くことに成功した。 成功した背景として

  • 北朝鮮からの送金はわずか100ルーブル[3]であり、将校たちは到底生活が出来なかったこと
  • 留学中、一人で生活することになりその間禁欲生活を強いられていたこと

が挙げられる[4]

またKGBは影響下に置いた人間を最優秀の成績で卒業させたことから彼らはKGBの思惑通り北朝鮮軍の重要ポストに着任することとなる[5]

ソ連の崩壊と事件の発覚[編集]

80年代後半から東欧の社会主義国で起こった民主化運動の流れの中、ベルリンの壁崩壊や東西ドイツ統合などに象徴される冷戦の終結はソ連も例外ではなかった。ソ連もペレストロイカグラスノスチ等の政策をとってはいたが民主化運動の流れには逆らえず影響下に置いた北朝鮮将校たちを活用しないままついにソ連も崩壊してしまう。そんな中1992年、北朝鮮に「ソ連留学生の間でKGB工作に引っかかったものがいる」という情報が流れてきたが、それまで北朝鮮の首脳は一切の事実を把握していなかった。

北朝鮮の対応[編集]

元KGB関係筋を通じて駐ロシア大使の孫成弼が先述の情報を耳にし、報告が上がる。そのことを知った金正日朝鮮人民軍保衛司令部司令官元応煕に命じて、KGBの工作に引っかかったものを徹底的に調査するよう指示。1986年以降ソ連に留学した将校たちを対象に高級幹部、北朝鮮大使館の武官等をことごとく逮捕。1994年までに北朝鮮は彼らをスパイ、反革命分子と規定し粛清した。中には、KGBの工作とは全く関係の無い者であっても、ソ連に留学していたという理由のみによって反革命分子と規定され、粛清された者もいる。また94年には定年に満たない将校600人を強制的に除隊させた[6]。そのため世界の情勢を知っていたエリート幹部たちは北朝鮮から姿を消し北朝鮮はさらなる孤立化への道を進むことになった[7]

脚注[編集]

  1. ^ 李友情著 金正日入門
  2. ^ 李友情著「金正日入門第7章金正日を支える面々232ページ
  3. ^ 日本円でおよそ3万円(1985年当時)
  4. ^ 李友情著 金正日入門第7章金正日を支える面々232~234ページ
  5. ^ 李友情著「金正日入門第7章235、236ページ
  6. ^ 但し、空軍将校数名は、このクーデターを摘発した元応煕と親交が厚かった空軍司令官趙明録の取りなしで粛清を免れた
  7. ^ 李友情著 金正日入門第7章金正日を支える面々240ページ

関連項目[編集]