勝部如春斎

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勝部 如春斎(かつべ じょしゅんさい、享保6年(1721年) -天明4年6月27日[1]1784年8月12日))は、日本の江戸時代中期に活躍した絵師

略伝[編集]

摂津国武庫郡西宮(現在の兵庫県西宮市)で、酒造業の名家・雑喉(ざこ)屋勝部源十郎兼唯の第三子(次男)として生まれる。天明7年(1787年)出版の『新撰和漢書画一覧』以来長らく姓は山本と誤伝されたが、これは同じ西宮で雑喉屋の屋号を持った別の名家・山本家と混同した誤りである。名は順蔵。字は兼寿、後に典寿。初め容斎、後に如春斎と号した。

大坂狩野派絵師・櫛橋栄春斎に学んだといい[2]、兄弟弟子に森狙仙の兄・森陽信(永春斎)がいる。後に狙仙は如春斎に弟子入りしたとされるが、それもこうした師弟の繋がりからだろう。摂津を中心に活動、特に浄土真宗寺院に作品が残っている。明和元年(1764年)44歳の時、九条尚実から「如春斎」の号を贈られ、以降「台賜如春斎」と署名する。64歳で没。墓所は、大阪市天王寺区新清水寺にあった墓石は無縁仏として移動され、現在は三田市大舟寺に移されている。また、寛政12年(1800年)に弟子たちが建てた墓が西宮の茂松寺にあったが、後に同士の満池谷墓地に移された。

如春斎の実子は如春斎とり早く没したが、次兄・兼方の子が絵師となり、その画系は明治時代まで続いた。故郷の西宮市は太平洋戦争末期空襲で大きな被害に遭っており、如春斎の作品や史料の多くが消失したが、西宮神社には画稿約170点が残るなど西宮周辺にはまだまだ多くの作品が残っている。

作品[編集]

作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 款記・印章 備考
小袖屏風虫干し図 紙本著色 1巻 40.5x600.0 大阪市立美術館 款記「如春斎」/「如春斎」朱文方印・「勝兼寿印」白文方印[3]
松楓に孔雀・松桜に孔雀図 紙本金地著色 襖各4面 198.0x95.0(各) 池田市・弘誓寺 款記「台賜如春斎典寿」/「典寿」白文方印・「如春」朱文方印 池田市指定文化財
桐鳳凰孔雀図 紙本金地著色 襖4面 169.0x91.2(各) 尼崎市・浄専寺 款記「台賜如春斎典寿」/「典寿之印」白文方印
秋草に鶴図 紙本金地著色 襖4面 185.4x86.9(各) 豊中市・養照寺 款記「台賜如春斎典壽」/「典寿之印」朱文方印[4]
三十三観音 紙本墨画著色 33幅対 約110x52 西宮市・茂松寺 1763年(宝暦13年)頃 東福寺にある明兆筆「三十三観音図」の模写。
十八天図 紙本墨画著色 双幅 111.5x52.4・11.0x52.2 西宮市・茂松寺 1763年(宝暦13年)頃 現在は東福寺塔頭永明院にある明兆筆「十八天図」の模写。
楼閣山水図 紙本墨画淡彩 襖4面 柿衛文庫 款記「台賜如春斎典壽」/「典寿之印」朱文方印
龍虎図屏風 紙本墨画 六曲一双押絵貼 132.5x55.0(各) 白鹿記念酒造博物館 無款/「台賜」印・「如春斎」朱文方印
四季草花図・芦雁図 紙本金地著色・紙本墨画 六曲一双・両面 169.4x369.0(各) 個人 款記「台賜如春斎」/「典寿之印」朱文方印
琴棋書画図屏風 紙本墨画著色 六曲一双 右隻:156.0x348.4・左隻:156.5x348.4 個人 款記「台賜如春斎典壽」/「典寿之印」朱文方印

脚注[編集]

  1. ^ 新清水寺にある如春斎の墓石より。
  2. ^ 画伝類の多くは、江戸の狩野栄春斎に学んだとしているが、『勝部如春斎伝』(1934年)の勝部家資料には如春斎が江戸へ行った記録はなく誤伝だと考えられる(土井(1992)p.42)。
  3. ^ 榊原悟監修 サントリー美術館 大阪市立美術館 日本経済新聞社 『BIOMBO 屏風 日本の美』 日本経済新聞社、2007年、pp.182-183、262。
  4. ^ 豊中市史編さん委員会編集 『新修豊中市史 第6巻 美術』 豊中市、2005年12月28日、口絵58、pp.175-167。

参考文献[編集]

  • 木村重圭 「狙仙攷」『古美術』第49号、三彩社、1975年9月、pp.60-61
  • 土井久美子 「続・障壁画の旅・20 弘誓寺(大阪府池田市)、浄専寺(兵庫県尼崎市)の障壁画 ─勝部如春斎─」『日本美術工芸』第647号、日本美術工芸社、1992年8月、p p34-42
  • 西宮市大谷記念美術館 枝松亜子編集 『西宮の狩野派 勝部如春斎 18世紀摂津の画人列伝』 公益財団法人 西宮市大谷記念美術館、2017年4月1日