勝承夫

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勝承夫

勝 承夫(かつ よしお、1902年明治35年)1月29日 - 1981年昭和56年)8月3日[1])は、東京市四谷区(現・東京都新宿区)出身の詩人。元日本音楽著作権協会会長。元東洋大学理事長。

来歴[編集]

旧制中学時代から詩人として活躍。1920年(大正9年)に、正富汪洋の勧めで東洋大学に入学し、正富が主催する『新進詩人』に参加。宵島俊吉のペンネームで「白痴を誘って野に出て」などの作品を著し、中央文壇に登場する。

また在学中には、1921年(大正10年)に井上康文らと『新詩人』を、1923年(大正12年)に同大出身の赤松月船岡村二一岡本潤角田竹夫らと『紀元』を創刊した。勝のこうした活動により、当時勝と同世代の詩人を志していた者の中では、東洋大学を志望する者が多かったと言われ、東洋大学は「詩・歌人大学」と呼ばれていた[要出典]

1927年(昭和2年)に東洋大学を卒業した後は報知新聞社に入社し記者となるも、1943年(昭和18年)には退社し、文筆活動に専念するようになる。

戦後は音楽教育活動にも参画し、日本音楽著作権協会会長を歴任。また、全国の小・中学校、高等学校の校歌の作詞を数多く手がけ、勝承夫が作詞し、平井康三郎が作曲したものが多くみられる。

1960年(昭和35年)と1975年(昭和50年)に学校法人東洋大学理事長に就任。

1953年(昭和28年)に「駅伝を讃えて」を、読売新聞紙上に発表。この詩文は、箱根駅伝第60回大会を記念して詩碑として刻まれ、往路ゴール・復路スタートの地点である芦ノ湖の湖畔で見ることができる。墓所は台東区大雄寺

主な詩集[編集]

  • 『惑星』 1922年
  • 『風の微風』 1923年
  • 『白い馬』 1933年
  • 『航路』 1947年
  • 『勝承夫詩集』 1981年

主な作詞[編集]

市町村歌[編集]

校歌[編集]

脚注[編集]