劉隠
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劉 隠(りゅう いん)は十国・南漢の実質的な創始者。河南上蔡(現在の河南省上蔡県)の人。正式には皇帝として即位しておらず、唐の節度使・後梁の南海王の地位にあった。
賢士・名士を好み、唐や後梁の混乱で逃れてきた多くの人材を登用して南漢の基礎を作り上げた。
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生涯 [編集]
874年、劉知謙(劉謙)の子として生まれる。もともと劉謙の父である劉安仁は南海の商人であったが、唐の混乱期に乗じて次第に頭角を現して潮州刺史に任じられた。父の劉謙は黄巣の乱討伐で功績を挙げたことから封州刺史に任じられている。乾寧元年(894年)に父が死去したため、後を継いで封州刺史となる。
広州で反乱が起こると、その鎮圧に貢献したことから哀帝から静海軍節度使・広州静海軍節度使に任じられた。そして広東・広西に勢力を拡大して半独立した。唐が滅びて後梁が成立すると、太祖・朱晃に臣従して乾化元年(911年)に南海王に任じられた。しかしその直後に病に倒れて死去した。享年38。
男子がいなかったため、後を弟の劉巖が継いだ。乾亨元年(911年)に劉巖が皇帝を称すと襄帝と追尊された。廟号は烈祖。
宗室 [編集]
父母 [編集]
兄弟 [編集]
- 弟:劉龑(南漢の高祖)