劉恩格

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劉恩格
Who's Who in China 3rd ed. (1925)
プロフィール
出生: 1888年光緒14年)[1]
死去: 不詳[2]
出身地: 盛京将軍管轄区奉天府遼陽州
職業: 政治家
各種表記
繁体字 劉恩格
簡体字 刘恩格
拼音 Liú Ēngé
ラテン字 Liu En-ko
和名表記: りゅう おんかく
発音転記: リウ オンゴー
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劉 恩格(りゅう おんかく)は中華民国満州国の政治家。北京政府奉天派の政治家で、後に満州国に参加した。鯉門

事績[編集]

奉天法政学堂を卒業し、後に日本に留学した。帰国後に雲南法政学堂教員となる。1912年民国元年)、奉天提法司科員に任ぜられる。翌年、衆議院議員となり国民党に属し、さらに憲法起草委員会委員となった。同年、第二革命(二次革命)が勃発すると、上海に移り革命派として活動したが、事敗れて捕縛されてしまう。[3][4]

釈放後の1914年(民国3年)、[5]劉恩格は奉天将軍公署秘書に異動し、奉天派指導者・張作霖の配下となる。1917年(民国6年)11月、臨時参議院議員に選出された。翌年8月、張の推薦もあって安福国会で衆議院副議長となる。1919年(民国8年)、南北和平会談で張作霖の代表をつとめた。1921年(民国10年)10月、察哈爾特別区域興和道尹に任ぜられる。しかし翌年の第一次奉直戦争で奉天派が敗北すると、劉も各職を辞任した。[3][6]

1932年大同元年)、劉恩格は満州国の立法院秘書長に任ぜられた。1934年康徳元年)10月、立法院が立法院設立準備のための秘書庁のみに改組され、院長趙欣伯が辞任する。そのため、劉が立法院秘書庁秘書長として、立法機関トップに立った。満州国滅亡後の劉恩格の行方は不詳である。[3][7]

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  1. ^ 徐主編(2007)、2488頁による。外務省情報部編(1928)、326頁は1881年生まれ(昭和3(1928)年現在「年齢48」)としている。Who's Who in China 3rd ed., p.539は、1866年生まれとしているが、これは誤りと思われる。
  2. ^ ネット上では「1949年没」との情報も見受けられるが、根拠は不明。
  3. ^ a b c 徐主編(2007)、2488頁。
  4. ^ 外務省情報部編(1928)、326頁。
  5. ^ 徐主編(2007)、2488頁による。外務省情報部編(1928)、326頁は、1916年6月としている。
  6. ^ 外務省情報部編(1928)、326-327頁。
  7. ^ 劉ほか編(1995)では、満州国滅亡まで劉恩格が立法院秘書長をつとめたとしている。

参考文献[編集]

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 外務省情報部編『改訂 現代支那人名鑑』東亜同文会調査部、1928年。 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 満州国
先代
趙欣伯(立法院長)
立法院秘書長
1934年10月 - 1945年8月
次代
(廃止)