劉岱 (東莱)

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劉岱(りゅう たい、? - 192年)は、後漢末期の兗州刺史公山皇族に列なる。

[編集] 生涯

劉岱の家統は前漢の高祖・劉邦に繋がり、高祖の孫である悼恵王庶子の斉孝王・劉将閭の少子、牟平共侯・劉渫の直系子孫に当たる。 青州平原郡般県の県令劉本(劉丕とも)の孫で、山陽太守劉輿(劉方とも)の嫡子。また、会稽郡太守・劉寵の甥で、劉韙従子袁術孫策に対した揚州刺史・劉繇は実弟である。

青州東莱郡牟平県山東省東部)の人。平原の士人・陶丘洪によって刺史に対し推挙されたという。初めは後漢の侍中(皇帝の側近)として朝廷に仕えていたが、董卓が朝廷の実権を掌握すると、董卓によって兗州刺史として下向、中央政事より離れた。後に東郡太守の橋瑁(演義では曹操)が董卓に対して挙兵、討伐軍を起こした際、これに呼応して反董卓聯合軍の一人として参加している。しかし、同じ反董卓軍の一人であった橋瑁と兵糧の借用問題から拗れて対立へと発展、橋瑁を殺害し、王肱を東郡太守にしている。

その後、青州に拠点を持つ黄巾軍残党勢力が兗州へと侵攻。これへの対応を協議する中で、配下の鮑信は、黄巾軍が百万ともいう圧倒的勢力を誇りその勢い衰えること知らず、鎮圧することは難儀を極める為に籠城するべきであると献策する。しかし、劉岱はこの進言を聞き入れることなく出陣し、敢え無く討死してしまった。その後、この乱を鎮圧した曹操が兗州刺史を継承することとなる。

正史によると、劉岱は実弟・劉繇と共に清廉で人望のある皇族兄弟として定評があり、二人を推挙した平原の士・陶丘洪は彼らのことを『若し明君をして公山(劉岱)を前に用いらしめ、後に正礼(劉繇)を擢けば、所謂長塗に二龍を御し、千里に騏驥を騁す、亦た可からずや。(もしも名君に劉岱を先に用いらせ、その後に劉繇を引き抜き用らせたならば、所謂長い道程において二匹の龍を操り、千里の道において一日に千里を行く二頭の駿馬を走らせるようなものです。なんとよいことではないでしょうか。)』と評価して言った。

[編集] 正史と演義における「劉岱」像

正史での劉岱は、192年に黄巾軍残党勢力と戦って戦死している。しかし、演義ではまた違った運命を辿っている。演義における劉岱は、青州黄巾党侵攻後も生存して曹操の家臣として仕え、徐州で曹操に謀反を起こした劉備と戦った。だが、劉備配下の将軍・張飛の策で捕らえられ、後に曹操の元へ釈放、曹操の怒りに触れ処刑されそうになっており、この時は孔融の取りなしで降格処分で済まされている。

何故この様に正史と演義とで全く別の人物像が出来上がったのか。近年の研究によると、正史における兗州刺史・劉岱とは別に、曹操配下の武将に同姓同名でしかも字(あざな)までが同一という二人がいることが判明した。これは名の「岱」の字が現在の山東省にある名峰・泰山を意味し、且つ字(あざな)としてこの「岱」の字と掛けた「山」の字に、当時の字(あざな)の通例の一つに従って主に年長者、転じて長男という意味で用いられた「公」の字とを合わせてしまった為である。つまり、兗州刺史の劉岱と曹操配下の劉岱は、全くの別人ということなのである。しかし、偶然にも名前だけでなく字までもが同じだったこと、兗州刺史・劉岱戦死後に後任の兗州刺史として曹操が任命され、曹操配下の劉岱も活躍の場を兗州へと移したこと等から両者が混同されるに至り、演義では二人の劉岱が同一人物として描かれてしまったようだ。