劉子勛

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劉子勛(りゅう しくん、456年 - 466年)は、南朝宋皇族。晋安王。孝武帝劉駿の三男。は孝徳。明帝の即位に対抗して擁立されたが、敗死した。

経歴[編集]

劉駿と陳淑媛のあいだの子として生まれた。460年大明4年)1月、晋安王に封じられた。8月、都督南兗州徐州之東海諸軍事・征虜将軍・南兗州刺史に任じられた。463年(大明7年)1月、改督江州南豫州之晋熙新蔡郢州之西陽三郡諸軍事・前将軍・江州刺史に転じた。464年(大明8年)1月、使持節・都督雍梁南北秦四州郢州之竟陵隨二郡諸軍事・鎮軍将軍・寧蛮校尉・雍州刺史となった。8月、再び江州刺史に任じられた。子勛は眼病を患ったため、孝武帝には愛されなかった。465年景和元年)、使持節を加えられた。

ときに前廃帝が多くの大臣を殺害していたが、何邁は兵変を起こして子勛を擁立する計画を立てた。その計画は漏れて、前廃帝が自ら宿衛の兵を率いて何邁を殺害した。続いて前廃帝は側近の朱景雲を送って子勛を毒殺しようとした。しかし朱景雲は盆口まで進むとそこにとどまり、江州の長史の鄧琬に知らせた。鄧琬らは廃立を名目に子勛を奉じて起兵した。

明帝が前廃帝を殺害して建康を掌握すると、子勛に車騎将軍開府儀同三司の位を与えた。しかし鄧琬らは命を拒否し、明帝即位に反対する檄を飛ばした。466年泰始2年)1月7日、子勛は尋陽城で帝を称し、年号を義嘉元年とし、百官を置いた。豫州刺史殷琰青州刺史沈文秀・徐州刺史薛安都冀州刺史崔道固湘州行事何慧文・広州刺史袁曇遠・益州刺史蕭恵開梁州刺史柳元怙らが呼応して起兵した。3月、子勛の尋陽政権は、左衛将軍の孫沖之らを派遣して赭圻に拠らせ、豫州刺史の劉胡を派遣して鵲尾に駐屯させ、安北将軍の袁顗を派遣して全軍を統帥させた。明帝側の張興世が銭渓に拠って袁顗らの補給路を遮断した。8月、劉胡は銭渓を攻撃して大敗し、劉胡が敗走したと聞くと、袁顗もまた南に逃れた。沈攸之が諸軍を率いて尋陽に入ると、子勛と母の陳氏を殺害した。子勛の遺体は尋陽の廬山に葬られた。

伝記資料[編集]

  • 宋書』巻80 列伝第40
  • 南史』巻14 列伝第4