劉哲

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劉哲
Who's Who in China 4th ed. (1931)
プロフィール
出生: 1880年光緒6年)[1]
死去: 1954年民国33年)
中華民国の旗 中華民国台湾
出身地: 吉林将軍管轄区吉林府(現在の永吉県
職業: 政治家・教育者
各種表記
繁体字 劉哲
簡体字 刘哲
拼音 Liú Zhé
ラテン字 Liu Cheh
和名表記: りゅう てつ
発音転記: リウ ジョー
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劉 哲(りゅう てつ)は中華民国政治家教育者北京政府で教育総長などの要職をつとめ、後に国民政府でも活動した。警興

事跡[編集]

京師大学堂文科を卒業する。以後、吉林省で政務暦を重ね、北京政府中央でも総統府顧問など様々な職に就いた。派閥としては、張作霖らの奉天派に属している。

1922年民国11年)、劉哲は参議院議員に当選する。1924年(民国13年)には中東鉄路理事となった。1927年(民国16年)6月、潘復内閣の教育総長兼国史館副総裁に任命されている。なお劉哲は、北京政府最後の教育総長である。同年8月には、国立京師大学校長も兼任した。

北京政府崩壊後、劉哲は張学良の配下となる。東北政務委員会委員、東北辺防司令長官公署参議等を経て、1935年(民国24年)12月には冀察政務委員会常務委員兼東北大学校長に任命された。1947年(民国36年)10月、監察院副院長となっている。国共内戦中国国民党が敗北すると、劉哲も台湾へ逃れた。

1954年(民国43年)、死去。享年75。

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  1. ^ 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』2426頁による。Who's Who in China 5th ed.,p.164は1892年としている。

参考文献[編集]

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
任可澄
教育総長
1927年6月 - 1928年6月
次代
(廃止)