光明寺 (綾部市)

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光明寺

本堂
所在地 京都府綾部市睦寄町君尾1-1
位置 北緯35度23分23.6秒 東経135度26分32秒 / 北緯35.389889度 東経135.44222度 / 35.389889; 135.44222座標: 北緯35度23分23.6秒 東経135度26分32秒 / 北緯35.389889度 東経135.44222度 / 35.389889; 135.44222
山号 君尾山
宗派 真言宗醍醐派
本尊 千手観音
開基 (伝)聖徳太子
札所等 綾部西国観音33番
文化財 二王門(国宝)
法人番号 7130005010553 ウィキデータを編集
光明寺 (綾部市)の位置(京都府内)
光明寺 (綾部市)
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光明寺(こうみょうじ)は、京都府綾部市にある真言宗醍醐派の寺院。山号は君尾山(きみのおさん)、本尊は千手観音聖徳太子による開創を伝える古刹である。

歴史[編集]

『君尾山略記』には、推古天皇7年(599年)、聖徳太子による開創と伝える。その後白鳳元年(673年)、役小角修験道の道場とし、延喜年間(10世紀初)、醍醐寺開祖の聖宝(理源大師)により真言密教の道場として中興されたという。最盛期には山上山下に72坊を有したと伝える。

現存する二王門は、棟札の記載によれば仁治3年(1242年)から建長5年(1253年)にかけて建立されたものである。棟札によれば、門の再興には延暦寺西塔院の僧・覚承が関わっており、この頃は天台系寺院であったことが伺われる。

大栄7年(1527年)11月、大栄の乱(赤井の乱とも)の兵火を受けて本堂、三重塔、法華堂、常行堂、鎮守拝殿、行者堂、鐘楼、坊舎を焼失した。寺に残る再興勧進帳により、天文2年(1533年)以後、地元の有力者である上林氏により伽藍が再建されるが、元亀3年1572年と天正7年(1579年)に明智光秀の焼き討ちにあい再び焼失。江戸時代には領主藤掛氏の庇護を受けたが、寺勢は衰退した。享保18年1733年には山下の23坊が焼失している。現存する本堂の再建は天保7年(1836年)である。

明治時代初頭には山上に残っていた4坊がなくなり、寺勢はさらに衰退した。大正3年(1914年)、庫裏、方丈、客殿を焼失し、同5年(1916年)に庫裏が再建されている。

二王門[編集]

二王門 (国宝

三間一戸、入母屋造、栩葺の二重門である。昭和25年(1950年)から昭和27年(1952年)10月まで行われた解体修理で、上層の柱から「宝治二年」(1248年)の墨書銘が発見された。また、床板に転用されていた棟札が発見され、その記載から、門は仁治3年(1242年)から建長5年(1253年)にかけて再建されたものであることが明らかになった。併せて永正13年(1516年)、享保14年(1729年)、安政6年(1859年)の3度にわたり修理が行われていたことも判明した。長押を多用し、下層の背面と上層には連子窓を設けるなど和様を基調とするが、頭貫の木鼻は大仏様(だいぶつよう)とする。二王(金剛力士)像を門の正面側でなく後の間に安置する点が珍しい。

中世にさかのぼる二重門(2階建で、下層と上層の境にも屋根の出をつくる門)は極めて稀少であり、建築年代が判明する点も貴重であり、修理完工後の昭和29年(1954年)に国宝に指定された。

2016年、修理が始まり3年後に終わる予定。

伽藍[編集]

  • 本堂 - 本尊千手観音菩薩を安置
  • 二王門(国宝) - 仁王像を安置
  • 地蔵堂
  • 庫裡 - 大正5年(1916年)再建
  • 梵鐘 - 慶長9年(1604年)9月20日本堂境内で改鋳

文化財[編集]

国宝[編集]

重要文化財[編集]

  • 木造金剛力士立像 2躯[1][2]

その他[編集]

  • 本堂 - 京都府指定文化財、江戸時代後期(1836年)再建
  • 鰐口 - 京都府指定文化財、室町時代応永17年(1410年)に若洲(若狭)上釜屋の作。面径41cm、肩厚11.5cm、本堂正面懸吊
  • 宝篋印塔 - 綾部市指定文化財、南北朝時代建立
  • 紙本墨書勧進帳奉加帳 1通・1冊綾部市指定文化財、室町時代
  • 光明寺制札2枚 - 京都府登録文化財、室町時代

所在地[編集]

〒623-1131 京都府綾部市睦寄町君尾1-1

交通アクセス[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 『日本歴史地名大系 京都府の地名』、平凡社
  • 『週刊朝日百科』「日本の国宝」75号、朝日新聞社、1998

関連項目[編集]

周辺情報[編集]

外部リンク[編集]