傅式説

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傅式説
『最新支那要人伝』(1941年)
プロフィール
出生: 1891年光緒17年)[1]
死去: 1947年民国36年)6月19日
中華民国の旗 中華民国上海市
出身地: 浙江省温州府楽清県
職業: 政治家・教育者・化学者
各種表記
繁体字 傅式說
簡体字 傅式说
拼音 Fù Shìyuè
ラテン字 Fu Shi-yüeh
和名表記: ふ しきえつ
発音転記: フー シーユエ
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傅 式説(ふ しきえつ[2])は、中華民国の政治家・化学者・教育者。南京国民政府(汪兆銘政権)の要人。筑隠傅式悦と表記されることもある。築隠。号は耐盦

事跡[編集]

1903年光緒29年)、中山学堂に入学する。1905年(光緒31年)、日本に留学して、東京帝国大学工学士称号を取得した。1911年宣統3年)、帰国し、辛亥革命で革命派の義勇軍に参加した。その後、再び日本へ留学し、東京帝国大学工学部で研究生となった。このとき、同級生たちと『丙辰学社』、『中華学芸社』を創立している。

1918年民国7年)に帰国し、通易鉱務公司、漢冶萍煤鉱公司などに所属した。1922年(民国11年)、私立廈門大学教授をつとめる。1924年(民国13年)には、大夏大学の創設に従事し、その首脳となる。1927年(民国16年)以降、国民政府の交通部や財政部で任用された。一方で、中華学芸社社長、大夏大学臨時校長なども、つとめている。

1940年(民国29年)3月、汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府に参加し、鉄道部部長兼中央政治委員会指定委員(以後、4期務める)となった。8月、中日文化協会常務理事兼総幹事となる。12月、全国経済委員会委員をつとめた。8月、行政院政務委員となり、さらに浙江省政府主席兼民政庁庁長となった。その後、清郷委員会委員や新国民運動促進委員会委員なども歴任している。

1943年(民国32年)3月、杭州日本専管租界接収委員に任じられた。1944年(民国33年)9月、建設部部長に任命される。11月、全国経済委員会常務委員となった。翌年2月、敵産管理委員会委員にもなっている。

日本敗北後の1945年(民国34年)9月27日、傅式説は蔣介石の国民政府に上海で逮捕された。翌1946年(民国35年)9月28日、漢奸の罪で死刑判決を受け、1947年(民国36年)6月19日、上海市で執行された[3]。享年57。

著書に『化学概論』がある。

脚注[編集]

  1. ^ 『最新支那要人伝』186頁は1892年とするが、本記事は徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』に従う。
  2. ^ 傅式悦と表記されることもあるため、「説」は「喜ぶ」を意味する「えつ」の音を採用する
  3. ^ 余子道ほか『汪偽政権全史 下巻』1463頁、1615頁。

参考文献[編集]

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 鄭仁佳「傅式説小伝」『伝記文学』ホームページ(台湾、要繁体字フォント)
  • 余子道ほか『汪偽政権全史 下巻』上海人民出版社、2006年。ISBN 7-208-06486-5 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。 
  南京国民政府(汪兆銘政権
先代
(創設)
鉄道部長
1940年3月 - 1941年8月
次代
(廃止?)
先代
梅思平
浙江省政府主席
1941年8月 - 1943年1月
次代
(省長に改組)
先代
(省政府主席から改組)
浙江省長
1943年1月 - 1944年9月
次代
項致荘
先代
陳君慧
建設部長
1944年9月 - 1945年8月
次代
(廃止)