佐藤優 (外交官)

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佐藤 優
生誕 1960年1月18日(49歳)
埼玉県
出身校 同志社大学大学院
職業 文筆家
配偶 既婚(離婚歴有)
  

佐藤 優(さとう まさる、1960年 - )は、日本の元外交官、文筆家、自称作家。男性。ロシア情報収集・分析のエキスパートとして活躍し、「戦後最強の外交官」「外務省のラスプーチン」などの異名をとった。 同志社大学神学部卒業、同大学院神学研究科修了。

2002年5月、背任容疑で逮捕。無罪を主張するが1審で有罪判決、2審で控訴棄却、2009年6月30日上告棄却。懲役刑が確定したため同日付で失職した。 1審判決後、事件の内幕や背景などをつづった著書『国家の罠』を出版、ベストセラーとなった。

執筆時の肩書きは「起訴休職外務事務官」。護憲派にして、国体を重視し皇統の維持を強く訴える尊皇家であり、キリスト教徒でもある[1]

目次

[編集] 経歴

東京都出身、埼玉県立浦和高等学校卒業後、同志社大学神学部に進学[2]、大学院神学研究科修了。研究のテーマは「チェコスロバキアの社会主義政権とプロテスタント神学の関係について」。特にチェコの神学者、ヨセフ・ルクル・フロマートカに強い興味を持った。フロマートカは反体制側の学者だったため、彼の研究を目的にチェコ留学をすることは不可能だった。運良く外務省の専門職員募集にチェコ語の研修語学があることを発見する。

[編集] 外交官時代

1985年4月にノンキャリアの専門職員として外務省に入省。しかし、研修はチェコ語ではなくロシア語であり、5月に欧亜局ソビエト連邦課に配属された。なお、当時のソ連課長は野村一成、主席事務官は宮本雄二であった。ロンドン郊外の英国陸軍語学学校でロシア語を学んだ後、1987年8月末にモスクワ国立大学言語学部に留学。この時、同大学の科学的無神論学科(ソ連崩壊後は、後に佐藤が講師を務めることになる宗教史宗教哲学科に改称)の扉を叩き、そこで当時、同学科の学生であった「サーシャ」ことアレクサンドル・カザコフと出会い、これがロシア人知識層との人脈を築く入口となった。

1988年から1995年まで在露日本大使館に勤務し、旧ソ連の政界・経済界・学界などに幅広い人脈をつくった。その人脈はイリイン旧ロシア共産党第二書記、シュベード旧リトアニア共産党第二書記ら守旧派の大物から改革派にまで及び、さらにソ連崩壊後はエリツィン大統領の最側近であったブルブリスロシア連邦国務長官(のち、国家院議員を経て、現在は連邦院議員)とも親交を持つなど、若手のノンキャリアでありながら大使館幹部級の人脈をもつとして注目されていった。 1991年1月のリトアニア独立運動の際には、最高会議場に立て籠もる独立派と独立阻止のため攻め入ろうとするソ連派双方の間を行き来し、説得と情報の橋渡しを続け、結果的にリトアニア独立後に独立貢献した外国人64人の1人としてリトアニア政府から図らずも叙勲される。 1991年8月のソ連8月クーデターの際には、全世界が注目していたゴルバチョフの生死について、ゴルバチョフ生存の情報を世界のどの情報機関よりも早くつかみ、東京の外務本省に連絡する。

日本帰任後の1998年には、国際情報局分析第一課主任分析官(課長補佐級、佐藤のために急造されたポストといわれる)となって情報収集・分析に活躍し、橋本龍太郎首相とエリツィン大統領のクラスノヤルスク会談にもとづく2000年までの日露平和条約締結に向け交渉を担ってきた。 また、外交官として勤務するかたわら、モスクワ大学哲学部に新設された宗教史宗教哲学科の講師(弁証法神学)や東京大学教養学部の非常勤講師(ユーラシア地域変動論)を務めた。

[編集] 鈴木宗男との関係

1991年9月、日本が独立を承認したバルト三国に政府特使として派遣されてきた鈴木宗男の通訳と車の手配などを佐藤がおこなった件を機に知り合い、鈴木と関係を築く。主任分析官となった背景にも鈴木の威光があったと言われる。鈴木宗男と共に仕事をしていたため、外務大臣になった田中真紀子からは疎まれ、「外務省のラスプーチン」と呼ばれた(ちなみに彼に「外務省のラスプーチン」というあだ名を付けたのは鈴木宗男であり、それは本来ポジティブな意味合いでの命名であった、と本人はニッポン放送上柳昌彦のお早うGoodDay!(08.04.24放送)」の中で語っている)。

[編集] 逮捕

2002年2月22日に外交史料館へ異動。同年外務省では、他に野上義二事務次官(後に駐英大使)、小町恭士官房長(現駐タイ大使)、重家俊範中東アフリカ局長(現駐韓大使)が相次いで更迭されるなど、異例の人事が続いた。

2002年5月14日に背任容疑で逮捕。同年7月3日、偽計業務妨害容疑で再逮捕。2004年10月、保釈。512日間の拘置所生活であり、拘置所には死刑囚もおり、佐藤がいた階には袴田事件の袴田巖死刑囚や連合赤軍事件坂口弘死刑囚がいた。

2005年2月に東京地裁(安井久治裁判長)で執行猶予付き有罪判決(懲役2年6ヶ月 執行猶予4年)を受け控訴していたが、2007年1月31日、二審の東京高等裁判所(高橋省吾裁判長)は一審の地裁判決を支持し控訴を棄却。最高裁判所第3小法廷(那須弘平裁判長)は2009年6月30日付で上告を棄却し、判決が確定した。国家公務員法76条では禁錮以上の刑に処せられた者は失職すると定められており、これにより外務省を失職することが確定した。

佐藤は次の2つの容疑で起訴された。

一つは支援委員会をめぐる背任である。

  • 2000年1月にガブリエル・ゴロデツキー(テルアビブ大学教授)夫妻をイスラエルから日本に招待した時
  • 同年4月にテルアビブ大学主催国際学会「東と西の間のロシア」に7名の民間の学者と外務省から6人のメンバーを派遣した時

この2回の費用を外務省の支援委員会から違法に引き出して支払った疑いである。この疑いに対し佐藤は、支援委員会から支払をすることは通常手続きである外務事務次官決裁を受けており正当なものだった、との主張をしている。

もう一つは北方領土支援にからむ偽計業務妨害である。これは2000年3月に行われた国後島におけるディーゼル発電機供用事業の入札で、鈴木の意向を受け、三井物産が落札するように違法な便宜を図ったり支援委員会の業務を妨害したとの疑いである。この疑いに対し佐藤は、北方領土の事情に通じた三井物産の選定は妥当であり、鈴木の「三井に受注されればいい」との発言を三井側に伝えただけだ、と主張している。

[編集] 論壇へ

一審判決で執行猶予がついたことを機に、捜査の内幕や背景などをつづった著書『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』を出版すると、大きな反響を呼んだ。同書などにおいて、佐藤本人は自身にかけられた一連の容疑・判決を「国策捜査」であったと批判している。この著書は第59回毎日出版文化賞特別賞を受賞し、以後爆発的に知名度を高めた佐藤は、外交官としての経験と知識を生かして論壇に多く姿を見せるようになった。そして新聞・雑誌などに外交評論や文化論を多く執筆し、手嶋龍一魚住昭など各界のビッグネームとの対談も好評価を得たことなどから、論壇での地位を確立した。

テレビというメディアに出演することには抵抗があるようだが、活字メディアや講演には精力的に顔を見せることでも知られる。特に最近ではジュンク堂書店での著書の紹介キャンペーンにも力を入れている。

2006年より、魚住昭宮崎学らとメディア勉強会「フォーラム神保町」を運営。

2008年から、早稲田大学大学院に設置されたジャーナリズムコースで、講師としてインテリジェンスを踏まえたメディア論について教鞭をとることとなった。現在、正式な講師ではなく、ゲスト講師という形での講義という形をとっているが、裁判の終了後に正式な教員となる予定[3]

[編集] 政策

北朝鮮に対しては武力行使も辞さずという立場だが、媒体によってトーンの強弱を使い分けている。

レバノン侵攻イスラエル・パレスチナ紛争などイスラエルの関わる問題では、一貫してイスラエル全面支持を表明し、イスラエルと「私たちは人間としての基本的価値観を共有している」と主張している。レバノン侵攻や2006年ガザ侵攻は、ヒズボラハマスのイスラエル人拉致というテロに対する当然の行動であったと主張した。これは、北朝鮮による日本人拉致問題について、日本に武力行使を促した意味もある。また、2009年ガザ侵攻では、イスラエル擁護の理由として「停戦協定を破ったハマスの先制攻撃が原因でありイラン、ヒズボラ、アルカイダと通じてイスラエル国家を破壊しようと画策している」と主張した。

また、佐藤は自らや鈴木宗男の逮捕の背景の一つに、イスラエルとのインテリジェンス協力を邪魔する外務省・反ユダヤ主義的グループの策謀があったと主張している[4]

[編集] 小林よしのりとの論争

SAPIO』2008年8月20日・9月3日合併号掲載の『ゴーマニズム宣言』において、小林よしのり沖縄の現状に対して連載したところ、佐藤からマスコミを通じた間接的な批判が一方的に行われたとして、小林が3ページに及ぶ佐藤への批判を展開し、両者の間でいさかいがやむなく続いている。小林によれば、佐藤は『琉球新報』の連載で「沖縄は全体主義の島だ」と主張する有識者を非難。この有識者を「名指ししていないが、もちろんわしのことだ」と小林が捉えたことから両者間の論争が始まった。事を起こしながら佐藤は『SPA!』に「佐藤優のインテリジェンス職業相談」を寄稿し、「ラスプーチン」と「大林わるのり」という架空の相談者を登場させ、あくまでフィクションとしての体裁を整えた上で、反撃を行った。

佐藤発の争いは以後も続いているが、2人とも同じく雑誌『SAPIO』に連載を抱えていること、また、小林の佐藤批判も『SAPIO』誌上で行われたことから、佐藤は小林よりもむしろ相反する主張を同時に掲載している小学館『SAPIO』編集部の姿勢に対して圧力を掛けたり、批判を向けている。そもそも(1)両者間の争点が明確ではないこと(2)小林に批判者として相手に対する礼儀が感じられないことから、佐藤はこれを「論戦」とは捉えていないようである。佐藤の認識・主張については、日刊サイゾーのインタビュー記事に詳しいのでそちらを参照されたい。

『SAPIO』2008年11月26日号の連載で、小林は佐藤からの言論弾圧が加えられたとして自身が編集長を務める『わしズム』(小学館から発行)の廃刊を宣言した。なお、小林には過去にも宅八郎との論争の末、『SPA!』から連載を引き上げたことがある。佐藤は以前小林について「非常に真面目な人物です。他者の言説をきちんと聞いてその内在的論理を正確に捉えようとする思想の構えがあります」[5]と語っていたが、今回の件で「それは崩れました。2年前に比べて今の小林さんは、ずいぶんと変わってしまった」と述べている[6]

[編集] 人物

国際ジャーナリストの河合洋一郎によれば、佐藤の酒豪ぶりは関係者の間で有名で「ウォッカの5本くらいは乱れることなく、その体におさめてしまう」らしい。多くの編集者は、佐藤との会食のためにそれなりの準備をしてくるのが普通で、翌日の二日酔いは覚悟のうちだという。

睡眠時間は一日平均3時間ほどで、ウォッカを5本飲んだ翌日も、それだけ寝れば健康に過ごせるという[7]。こうした体質が、彼の情報収集、特に大酒のみのロシア人相手の場合において大いに役立っていることは、他の著作からもうかがうことができる。

マスメディアに多くの連載を持っているが、次のような出来事があった。

  • 2007年4月『AERA[8]の「佐藤優という『罠』」の記事について、〝外務省のある人物〟という匿名コメントで「(鈴木宗男の質問趣意書は)佐藤が仕掛けている」「(佐藤は)都合のいいことしか書いてない」「佐藤はものすごい陰謀家で、外務省に復讐しようとしている」などと記述する。これついて、佐藤が「事実誤認」として内容証明郵便でAERA編集長に抗議すると、翌週発売号[9]で訂正記事が掲載される。佐藤はまた、『週刊金曜日[10]誌上で、記事中の「私が書かない『都合のよくないこと』が具体的でないコメントを載せるのは公平でない」と、執筆者の大鹿靖明個人に公開質問状を出す。大鹿は、マスコミ主催の勉強会の席上で佐藤に謝罪した[11][12]
  • 金光翔は、左翼による佐藤の重用を<佐藤優現象>と名付け、リベラル・左派のポスト改憲体制への迎合であるとして批判した[13]。その批判が出てから数週間後の11月末、『週刊新潮』に「佐藤優批判論文の筆者は『岩波書店』の社員だった」という記事が掲載された。その記事は、金光翔が岩波でも問題ばかり起こすことで有名な社員で、今回の論文が岩波社内でも問題になっているという、佐藤サイドに立ったものであった。しかも、記事を書いた新潮の記者は佐藤と個人的に親しい関係にあり、新潮の記事中のコメントで佐藤は「岩波にも責任がある」と恫喝した。金光翔はこの一件のあと、岩波社内で『世界』編集部から校正部に異動となっている[12]。2009年6月12日、金光翔は「週刊新潮」の当該記事をめぐり、新潮社、早川清「週刊新潮」前編集長、佐藤優を被告とし、600万円の損害賠償・謝罪広告等を求めて東京地方裁判所に提訴した。
  • 尊皇家でありながら左翼的な雑誌に寄稿するあり方や南朝正統論にたつ佐藤に対し、小谷野敦は現在の天皇は北朝ではないのかと批判した。
  • 『en-taxi』で行われた本郷和人との対談で、三種の神器によって即位したのが正統な天皇だと佐藤が言うのに対し、本郷は、しかし三種の神器は複数あったはずだと問うたが、北畠親房が正しいとした三種の神器が本物の神器だと佐藤は答えた。しかし本郷の『天皇はなぜ続いたか』の『ダ・ヴィンチ』7月号での書評で、本郷にならってあまり無茶苦茶を言うのはやめようと自戒した、と反省した。
  • 左翼の側からは、国家主義者であり、ファシズムに親和的な佐藤を起用してよいのかとする批判が、『週刊金曜日』『世界』など、佐藤を重用する左派誌に寄せられている。

佐藤は、ウィキペディアに対して、百科事典が本来果たすべき「歴史をある時点で切断し、その時点での体系知の構造を提示する」という目的・機能をウィキペディアは果たすことができない、と評している。また、ウィキペディアへの批判として、それが『世界大百科事典』といった従来の事典と比較して「信憑性が根本的に異なる」と指摘している[14]

田母神論文問題を引き起こしたアパグループ主催・「真の近現代史観」懸賞論文は、アパグループ代表・元谷外志雄の著作『報道されない近現代史』(産経新聞出版刊)を記念して創設されたものだが、佐藤は同書の広告に推薦文を書き、そこで「異能の実業家、元谷外志雄氏が描くグローバリセージョン後の帝国主義的国家対立の姿に戦慄した」と絶賛している。[1]

[編集] 著作

[編集] 著書

[編集] 共著

[編集] 訳書

[編集] 解説・後書き

[編集] 雑誌連載

※2009年現在

  • SAPIO』「SAPIO intelligence database」
  • 『一冊の本』「ラスプーチンかく語りき」(魚住昭との対談)
  • 『アサヒ芸能』「ニッポン有事!」
  • 『創』「ナショナリズムという病理」
  • 『新潮』「高畠素之の亡霊」
  • 『創』「ナショナリズムという病理」
  • 『情況』「今こそ廣松渉を読み返す」
  • 『産経新聞』「佐藤優の地球を斬る」
  • 『本の窓』「開国-私のナショナリズム」
  • 『みるとす』「イスラエル並びにユダヤ人に関するノート」
  • クーリエ・ジャポン』「海外ニュースの『楽しみかた』」
  • 『週刊東洋経済』「知の技法 出世の作法」
  • 『Will』「猫は何でも知っている」
  • 『新潮45』「外務省に告ぐ」
  • 『福音と世界』「神学の履歴書」
  • 『中央公論』「新・帝国主義の時代」
  • 『文學界』「ドストエフスキーの預言」他。

[編集] 受賞歴

[編集] 関連人物

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ 「キリスト教徒」であることと「尊皇家」であることは両立できる。例えば、皇室の存在意義を積極的に認めていた知識人のクリスチャンには、新渡戸稲造内村鑑三賀川豊彦神谷美恵子らが挙げられる。
  2. ^ 琉球大学にも合格していたが、当時マルクス主義に傾倒していた佐藤を心配した親族によって、同志社大学に進学させられることとなった。
  3. ^ asahi.com:佐藤優さん、早大でインテリジェンスを講義
  4. ^ 【佐藤優の眼光紙背】第5回:守屋武昌前防衛事務次官に対する証人喚問 2007年10月30日11時00分 / 提供:眼光紙背、『SANKEI EXPRESS』 「【佐藤優の地球を斬る】「反イスラエル」強い 日本のメディア 配信元:2009/03/09 11:42
  5. ^ 『国家と神とマルクス』太陽企画出版、2007年 p186
  6. ^ 日刊サイゾー「『よしりんと戦争勃発!』佐藤優ロングインタビュー」
  7. ^ 『野蛮人のテーブルマナー ビジネスを勝ち抜く情報戦術』 講談社、2007年 p183-184
  8. ^ AERA 2007年4月23日号
  9. ^ AERA2007年4月30日号
  10. ^ 2007.5.11号
  11. ^ 「朝日『アエラ』スター記者が『佐藤優』に全面降伏」(『週刊新潮』2007年5月17日号)
  12. ^ a b 「マスコミを手玉に取る『佐藤優』の『豪腕』ぶり」『実話ナックルズRARE』2008年11月25日発行
  13. ^ 金光翔「<佐藤優現象>批判」、『インパクション』第160号(2007年11月刊) 金光翔「<佐藤優現象>批判」(『インパクション』第160号(2007年11月刊)掲載)
  14. ^ 「『改訂新版 世界大百科事典』について」『月刊百科』第543号、2008年1月
  15. ^ 佐藤優『国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて―』|新潮
  16. ^ 新潮ドキュメント賞に元外交官の佐藤優さん : 出版トピック : 本よみうり堂 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

[編集] 外部リンク