伊藤正徳 (競馬)

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伊藤正徳
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県宝塚市
北海道静内郡静内町生まれ)
生年月日 1948年10月22日
死没 (2020-08-20) 2020年8月20日(71歳没)[1]
騎手情報
所属団体 日本中央競馬会
所属厩舎 東京尾形藤吉(1968 - 1975)
東京→美浦・尾形盛次(1975 - 1982)
美浦・尾形充弘(1982 - 引退)
初免許年 1968年3月2日
免許区分 平地
騎手引退日 1987年2月28日
重賞勝利 17勝
G1級勝利 2勝
通算勝利 2115戦282勝
調教師情報
初免許年 1987年(1988年開業)
調教師引退日 2019年2月28日
重賞勝利 22勝
G1級勝利 2勝
通算勝利 6175戦518勝
経歴
所属 美浦トレーニングセンター
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伊藤 正徳(いとう まさのり、1948年10月22日 - 2020年8月20日[1])は、兵庫県宝塚市出身(北海道静内郡静内町生まれ[2])の元調教師騎手

それぞれ騎手・調教師を務めた伊藤正四郎は父、伊藤雄二は義兄[2]

経歴[編集]

太平洋戦争後の混乱期に両親は離れて暮らしており、父・正四郎は阪神で調教師として活動し、母は静内で美容室を営んでいた[2]。正徳は母元で育っていたが、小学校卒業直前に正四郎が結核に倒れ、見舞いに駆けつけた病床で正四郎から「騎手にならんか」と誘われる[2]。この段階で乗馬経験がなかったため、1度は首を横に振ったが、正四郎はそれで納得する父ではなかった。基礎から教えるという条件をのんで騎手になる事を決意したが、実際に正四郎が教えてくれる事はなく、それからすぐに意識不明になって間もなく死去[3]。正徳はその遺言を容れて宝塚市に移ったのち、阪神の厩舎に住み込んで中学校に通った。中学卒業後は上京し、大阪から10時間かけて馬事公苑へ行き[3]、中央競馬騎手養成長期課程に第15期生として入所[2]。同期には後にいずれも騎手顕彰者となる福永洋一岡部幸雄柴田政人らがおり、後年この15期生は「花の15期生」と称される[2]東京五輪があった1964年には白井分場宇都宮育成牧場などを転々としたが、当時の馬事公苑の苑長が津軽義孝で、娘の正仁親王妃華子と話したこともあった[4]

父の師でもあった東京尾形藤吉調教師に師事し、1968年に騎手デビュー[2]。当時は徒弟制が色濃く上下関係が厳しい時代にあり、保田隆芳を筆頭に兄弟子が8人も在籍。尾形のを磨いたり、梅干しを漬けるような仕事もしたほか、兄弟子達の身の回りの世話もした[3]。正徳は騎乗数を確保するだけでもひと苦労であったが、それでも数少ないチャンスを活かし[3]、後には兄弟子を差し置いて多くの騎乗機会を与えられた[2]。同年は3月2日中山第7競走5才以上オープン・コキンホースで初騎乗を果たし(10頭中6着)、8月24日の東京第3競走障害4歳以上未勝利・フリートターフで初勝利を挙げる。同年には重賞で騎乗することは無かったが、オープン2戦でフイニイに騎乗して1勝を挙げた。初勝利時のパートナー・フリートターフで東京障害特別(秋)を制して重賞初勝利を挙げると[5]、徐々に成績が安定しだし、1年目から2桁の13勝を挙げる。新人年の障害重賞勝利は瀬戸口勉加賀武見・中西武信・星野信幸に続く5人目となったが、その後は1969年田村正光東京障害特別(春)・クインサーフで達成しており、2022年時点では田村が最後となっている。星野は同期で、瀬戸口、中西と共に平地含めた重賞初騎乗での勝利でもあった[6]

1971年には自己最多の23勝を挙げ、秋の福島開催では11月に2度の1日3勝をマークするなど13勝を記録し、11月14日には第8競走飯坂特別・ハーモンド→第9競走アラブ王冠(秋)・ムツミマサル→第10競走河北新報杯・フラワーヒルと3連勝した。以後も毎年の重賞勝利を重ね、1974年5月11日の東京第4競走4歳未勝利・ダイワゴールドで通算100勝を達成すると、1975年には尾形の息子である盛次の厩舎に移籍。1976年には8勝と2桁勝利が8年連続で止まり、重賞勝利も0に終わったため5年連続で止まったが、10年目の1977年にはラッキールーラ東京優駿を制覇。GI級レース及び八大競走初制覇を成し遂げ、花の15期生最初のダービージョッキーとなったほか、1938年トクマサで制していた正四郎との史上2組目の親子制覇となった[7][注 1]

1980年には歌手として『おれでよければ』(作詞、作曲・四方章人)というEPレコードを発売し、10万枚を売り上げシルバーディスクを獲得している[8]。調教師時代の2015年にはミルファームの清水敏代表が、この曲から命名した「オレデヨケレバ」が管理馬となった[8]1978年には同期である岡部の500勝達成記念パーティー「岡部幸雄騎手を励ます会」でも美声を披露し、五木ひろしふたりの旅路」を歌っている[9]。このパーティーで挨拶も述べているが、岡部に「僕は技術にしても何にしても岡部君には負けます」としつつも、「ひとつだけ勝てるものがあります。僕はダービーに勝っているけど、岡部君はダービーを勝っていない」と言った[10]。岡部はそれまで笑みを浮かべていたが、この言葉を聞いて無表情に一変している[10]

1981年夏の函館開催時に師匠の尾形が倒れて入院し、9月になっても体調が戻らず入院したままとなり、そんな状況下の同27日に師匠の管理馬であるメジロティターンセントライト記念に臨んだ。レース前に師匠の尾形は89歳で死去したが、周囲の関係者は重賞が終わるまで正徳に教えないようにし、その約15分後に正徳は尾形最後の重賞勝利を挙げた。レース後に入院先の函館へ飛ぼうとしていたが、勝利騎手インタビューへ向かおうとしている時にその死を知った[3] [7]11月15日の東京第2競走3歳新馬・サクラダッシュで通算200勝を達成すると、1982年にはティターンとのコンビで天皇賞(秋)を制覇。これは正徳、盛次、ティターンいずれもが父子制覇という珍しい記録を伴った[7]。その後、デビュー当初から減量に苦しんでいた事もあり、1983年金杯(東)・ヨロズハピネスが最後の重賞勝利となる。1987年2月19日、調教師免許試験に合格[11]同28日の騎乗をもって騎手を引退し、最終日の中山第2競走4歳未勝利・ダイナスクエアで現役最後の勝利を挙げ[12]、第6競走4歳新馬・ダイナクローネが最後の騎乗となった(16頭中8着)。通算2115戦282勝、うち八大競走2勝を含む重賞17勝。

引退後は管理馬房に空きがなかったことから藤吉の孫・尾形充弘の厩舎で1年を過ごし、1988年より開業[2]1990年にウィナーズゴールドがクイーンステークスを制し、調教師としての重賞初勝利を挙げた[13]1995年には関東4位(全国11位)の31勝を挙げ[14]優秀調教師賞を受賞[15]1996年にも34勝で前年に続き関東4位(全国6位)の成績を残し[16]、同賞を2年連続で受けた。1999年春にはエアジハードグラスワンダーを破って安田記念を制し、調教師としてGI競走を初制覇[17]。同馬は秋にもマイルチャンピオンシップを制し、同年のJRA賞において最優秀短距離馬最優秀父内国産馬の2部門に選出された[18]。安田記念の時には競馬場に娘を連れて行ったが、正徳をそれを忘れるほど興奮した[3]1992年にデビューした門下生の後藤浩輝は3年目の1994年フリーとなり、1996年のアメリカ滞在以降に大きく飛躍し関東の有力騎手となったが、その頃より正徳の管理馬への騎乗はなくなり、何らかの確執を生じたとも噂された[19]。しかしやがて両者は再び接近し、2003年には後藤が騎乗するローエングリンが2重賞を制したほか、フランスムーラン・ド・ロンシャン賞で2着といった成績を挙げた[19]。新人の頃から国際志向が強く、地に足のつかない後藤を正徳は幾度もたしなめていたが、その一方で後藤の英語学習の費用を負担するなど陰では応援していた[19]。以後の師弟コンビではローエングリンのほか、エアシェイディでも2009年アメリカジョッキークラブカップを制した[20]。しかし後藤は2012年より大きな落馬事故が重なったのち、2015年2月に自殺する[21]。正徳は「俺より先に逝くのは卑怯だ、一番の親不孝だと言いたいが、それ以上に苦労していたんだと思う。(度重なる)怪我が原因とは思いたくないけど、張り詰めていたものがプツリと切れてしまったのかもしれない」などと語った[22]4月5日には中山で後藤を送る「メモリアルセレモニー」が開かれ、挨拶に立った正徳は「弟子を取るときに『歌のうまい子しか取らない』と言っていたら、本当にうまい子が来た。うちの馬ではあまり勝っていなくて、私は口うるさいだけの師匠でした。(後藤浩輝は)私の子供。こんなにいい子はいない。記録に残る騎手はたくさんいるけど、後藤は記憶に残る騎手でした」と語った[23]

2012年には福永洋一記念当日の高知で開かれた花の15期生の同期会に参加し、洋一を囲んでの会見ではエピソードを語った[24] [25]2016年には休苑前の馬事公苑を訪問し、思い出話に花を咲かせた[4]

2019年2月28日付けで定年のために調教師を引退。2020年に入ると体調を崩して入退院を繰り返し、同年8月20日に死去。71歳没[1]

成績[編集]

騎手成績[編集]

  • 通算2115戦282勝[26]
重賞勝利騎乗馬(優勝競走)
  1. 出典:『日本調教師会50年史』資料編・重賞競走成績
  2. 競走名太字は八大競走
その他

調教師成績[編集]

年度別成績
  1. 中央競馬成績の出典は日本中央競馬会公式サイト調教師名鑑「伊藤正徳」より。
勝利 出走 勝率 重賞勝利管理馬(優勝競走[注 2]
1988年 2勝 67回 .030
1989年 15勝 162回 .093
1990年 18勝 196回 .092 ウィナーズゴールド(クイーンステークス)
1991年 16勝 188回 .085
1992年 12勝 183回 .066
1993年 16勝 174回 .092
1994年 25勝 195回 .128 ホッカイセレス中山牝馬ステークス府中牝馬ステークス
シルキーローザ(タマツバキ記念
1995年 31勝 213回[注 3] .139 マイネルブリッジNHK杯福島記念
1996年 34勝 215回 .158
1997年 26勝[注 4] 222回[注 5] .117 マイネルブリッジ(七夕賞
1998年 22勝[注 6] 212回[注 7] .104 ツクバシンフォニーエプソムカップ
エアデジャヴー(クイーンステークス)
エアジハード富士ステークス
1999年 21勝 202回[注 8] .104 エアジハード(安田記念マイルチャンピオンシップ
2000年 22勝[注 9] 205回[注 10] .107 フューチャサンデークイーンカップ
2001年 21勝 223回 .094
2002年 32勝 278回 .112 ヒゼンホクショー(東京オータムジャンプ
2003年 23勝[注 11] 262回[注 12] .088 ローエングリン(中山記念、マイラーズカップ)
2004年 20勝 274回[注 13] .073
2005年 20勝 214回 .093 ローエングリン(マイラーズカップ)
2006年 24勝 244回[注 14] .098
2007年 21勝 203回 .103 ローエングリン(中山記念)
ネヴァブション日経賞
2008年 20勝 189回 .106 エアシェイディアメリカジョッキークラブカップ
2009年 13勝 156回 .083 ネヴァブション(アメリカジョッキークラブカップ)
2010年 16勝 176回[注 15] .091 ネヴァブション(アメリカジョッキークラブカップ)
2011年 9勝 159回 .057
2012年 7勝 186回 .038
2013年 8勝 152回 .053
2014年 7勝 152回 .046
2015年 5勝 167回 .030
2016年 8勝 235回 .034
2017年 4勝 227回 .018
2018年 4勝 221回 .018
2019年 1勝 44回 .023
受賞歴
日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初出走 1988年3月5日 2回東京3日8R 4歳上400万下 トーヨーテイオー 14頭 5 11着
初勝利 1988年5月15日 1回新潟8日8R 4歳上400万下 エイコーフィバー 13頭 11 1着
重賞初出走 1989年3月12日 2回京都6日11R 中山記念 アイアンシロー 13頭 12 13着
重賞初勝利 1990年9月30日 4回中山8日11R クイーンS ウィナーズゴールド 13頭 8 1着
GI初出走 1989年5月21日 3回東京2日10R 優駿牝馬 エバープロスパー 24頭 8 9着
GI初勝利 1999年6月13日 3回東京8日11R 安田記念 エアジハード 14頭 4 1着

厩舎所属者[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 。親子で東京優駿を制覇した例は、2020年現在ではこの伊藤親子の他には、中島時一・啓之親子、武邦彦親子の3組のみである。
  2. ^ 太字はGI競走。
  3. ^ 地方1回。
  4. ^ 地方1勝。
  5. ^ 地方1回、日本国外1回。
  6. ^ 地方1勝。
  7. ^ 地方3回。
  8. ^ 地方5回。
  9. ^ 地方1勝。
  10. ^ 地方3回。
  11. ^ 地方1勝。
  12. ^ 地方7回、日本国外3回。
  13. ^ 地方5回。
  14. ^ 地方1回。
  15. ^ 日本国外1回。

出典[編集]

  1. ^ a b c "伊藤正徳・元調教師が死去". デイリースポーツ. 神戸新聞社. 21 August 2020. 2020年8月21日閲覧
  2. ^ a b c d e f g h i 木村(1997)pp.35-40
  3. ^ a b c d e f 故・後藤浩輝の師匠、逝く。彼のホースマン人生と、引退後の夢だった事とは……
  4. ^ a b 【ズームアップ】生まれ変わる馬事公苑「花の15期生」思い出話に花 - 予想王TV@SANSPO.COM
  5. ^ 『日本の騎手』p.294
  6. ^ 53年ぶり、5人目?の記録達成なるか。 7月30日(土)の放送予定|中央競馬実況中継
  7. ^ a b c 『優駿』1987年9月号、pp.37-39
  8. ^ a b 【東京新馬戦】オレデヨケレバ 伊藤正師のレコードと同名馬デビュー”. スポーツニッポン (2015年6月5日). 2015年6月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年6月27日閲覧。
  9. ^ NHKアーカイブス(番組)|これまでの放送
  10. ^ a b 山本一生『競馬学への招待 増補』平凡社〈平凡社ライブラリー537〉、2005年。ISBN 4582765378、p50-51
  11. ^ 『優駿』1987年4月号、p.158
  12. ^ 『優駿』1987年4月号p.106
  13. ^ 『優駿』1990年11月号、p.154
  14. ^ 『優駿』1996年2月号、p.116
  15. ^ 『優駿』1996年2月号、p.174
  16. ^ 『優駿』1997年2月号、p.116
  17. ^ 『優駿』1999年8月号、p.133
  18. ^ 『優駿』2000年2月号、p.34
  19. ^ a b c 『優駿』2010年8月号、pp.67-69
  20. ^ 『優駿』2009年3月号、p.108
  21. ^ 後藤浩輝騎手が自宅で死去”. netkeiba.com (2015年2月27日). 2015年2月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年6月27日閲覧。
  22. ^ ファンも参加できる「後藤騎手お別れ会」実現へ”. 東京スポーツ (2015年2月27日). 2015年6月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年6月25日閲覧。
  23. ^ 中山競馬場で後藤騎手お別れ会…ファン2000人見守る”. 産経新聞 (2015年4月6日). 2015年6月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年6月27日閲覧。
  24. ^ hacosuke.com : はこすけダイアリー
  25. ^ 高知への旅~其の弐|地方競馬ならオッズパーク競馬
  26. ^ 日本中央競馬会公式サイト調教師名鑑「伊藤正徳」(直接リンク不可)
  27. ^ a b 『日本調教師会50年史』p.205

参考文献[編集]

  • 木村幸治『調教師物語』(洋泉社、1997年)ISBN 978-4896912920
  • 日本調教師会50年史編纂委員会(編)『日本調教師会50年史』(日本調教師会、2002年)
  • 優駿』(日本中央競馬会)各号

関連項目[編集]