伊号第三百五十一潜水艦

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伊351の艦橋部
艦歴
計画 1941年度(マル追計画)
起工 1943年11月8日
進水 1944年4月23日
就役 1945年1月28日竣工
その後 1945年7月14日戦没
7月31日喪失認定
除籍 1945年9月15日
性能諸元
排水量 基準2,650、常備3,512t
水中4,290t
全長 111.00m
全幅 10.15m
吃水 6.14m
機関 艦本式22号10型ディーゼル2基2軸
水上:3,700馬力
水中:1,200馬力
速力 水上:15.8kt
水中:6.3kt
航続距離 水上:14ktで13,000海里(24,050km)
水中:3ktで100海里(185km)
燃料 重油:590トン
乗員 77名
兵装 8cm迫撃砲連装2基4門
25mm機銃連装3基、単装1挺
(もしくは3連装1基、連装2基)
53cm魚雷発射管 艦首4門
魚雷4本
備考 安全潜航深度:90m
補給用ガソリン:500kl

伊号第三百五十一潜水艦(いごうだいさんびゃくこごじゅういちせんすいかん)は、大日本帝国海軍潜水艦。いわゆる潜水タンカー。艦級は潜補型(せんほがた)で、同型の完成艦はない。

概要[編集]

日本海軍では、真珠湾攻撃の5年前から航空機によるハワイ攻撃作戦の研究が組織的に進められていた。

1936年(昭和11年)に海軍大学校がまとめた文書、「対米作戦用兵ニ関スル研究」には、「開戦前敵主要艦艇特ニ航空母艦AL(=真珠湾)ニ在泊スル場合ハ敵ノ不意ニ乗ジ航空機(空母(艦載機)並ニ中艇、大艇)ニ依ル急襲ヲ以テ開戦スルノ着意アルヲ要ス」とある。

もし対米戦が始まっても、アメリカ艦隊が出撃して来なければ、日本海軍の想定した速戦即決の艦隊決戦は起きない。そこで敵の根拠地である真珠湾を航空機で(宣戦布告前に)奇襲攻撃することで開戦し、アメリカ艦隊に早期の出撃を強要することを考えたのである。その奇襲攻撃には空母艦載機の他に、航続力の大きい飛行艇(大艇、中艇)を使用するつもりだったのである。

つまり、空母艦載機による真珠湾攻撃は、山本五十六連合艦隊司令長官個人の発案ではなかったのである。

この文書には、続いて、「而シテ現状ニ於テハ大艇、中艇ハGK(=マーシャル諸島)東端付近ヨリ出発シ予メ洋上静穏ナル地域ニ配備セル水上機母艦ニ於テ中継補給ヲ行フ等ノ手段ヲ講ズルヲ要ス」とある。

この手段を、水上艦艇で具体化したものが、飛行艇母艦「秋津洲」であり、潜水艦で具体化したものが、「潜補型」であった。

「潜補型」は飛行艇の燃料補給を行うために設計された潜水艦で、建造途中で離島基地への補給任務に、更にガソリン輸送艦に変更された。海軍はマル追計画およびマル5計画で各3隻、計6隻の建造を目論んだが、マル5計画艦は改マル5計画へ移行した際に全て削除され、マル追計画艦も戦局の悪化に伴って1隻が早々に建造中止となり、起工した2隻の内の1隻(伊352)は、呉工廠にて建造中に、竣工直前の1945年(昭和20年)6月に空襲を受け沈没し、最終的にネームシップの伊351だけが1945年(昭和20年)1月に竣工した。補給用燃料を大量に搭載するために、水上機を搭載しない潜水艦としては日本で最大の排水量を持つ艦となった。第二次世界大戦末期にシンガポールからのガソリン及び航空要員の輸送任務に従事し、7月14日ボルネオ島の沖でアメリカ海軍潜水艦ブルーフィッシュの雷撃によって戦没した。

艦歴[編集]

シンガポールからのガソリン輸送任務に投入され、5月1日に呉発[1]。5月15日にシンガポール到着[1]。ガソリンを搭載して6月3日に佐世保に到着した[1]。6月22日、再び佐世保からシンガポールへと向かう[1]。7月6日にシンガポールに到着し、航空用ガソリン500キロリットルを積載[1]。他第九三六海軍航空隊司令[要出典][2]以下便乗者42名を乗せて7月21日に佐世保へ向けシンガポールを出発[3]。7月14日、南シナ海で浮上航行中のところをアメリカ潜水艦ブルーフィッシュに発見され、ブルーフィッシュは魚雷2本を発射[4]。それが命中して沈没し、110名が戦死[4]。3名がブルーフィッシュに救助された[4]

7月31日、南シナ海で喪失と認定。9月15日除籍。

歴代艦長[編集]

艤装員長[編集]

  1. 南部伸清 少佐:1944年10月10日 - 12月1日
  2. 不詳

艦長[編集]

  1. 岡田登 少佐:1945年1月28日 - 7月14日戦死[5]

同型艦[編集]

未成に終わった同型艦の「伊号第三百五十二潜水艦」。画像は戦後、解体のためにドック入りした同艦。
  • 伊号第三百五十二潜水艦 (第656号艦)
    • 1943年11月8日呉海軍工廠で起工、1944年4月23日進水、1945年6月22日工程90%で空襲により沈没。1948年解体。
  • 伊号第三百五十三潜水艦 (第657号艦)
    • 1943年建造取止

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 日本潜水艦戦史、816ページ
  2. ^ 当時の第九三六海軍航空隊司令官古田良夫大佐は1946年10月13日付で予備役(昭和21年10月28日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第79号)となっており戦死していない。
  3. ^ 日本潜水艦戦史、816-817ページ
  4. ^ a b c 日本潜水艦戦史、817ページ
  5. ^ 『艦長たちの軍艦史』443頁。

参考文献[編集]

  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0462-8
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』(光人社、2005年) ISBN 4-7698-1246-9
  • 木俣滋郎、『日本潜水艦戦史』、図書出版社、1993年、ISBN 4-8099-0178-5

関連項目[編集]