人間動物園

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1928年にドイツシュトゥットガルトで行われた人間動物園のポスター

人間動物園(にんげんどうぶつえん、「民族学的展示」「人間の展示」とも)とは、19世紀から20世紀にかけて行われた、社会進化論人種差別進化主義植民地主義に根ざした、野蛮・未開とされた人間の文化・生態展示のことである。実際のパビリオン自体の名称として黒人村とされている例もあるが、必ずしもアフリカ系の黒人が対象となるわけではない。

概要[編集]

チャールズ・ダーウィン進化論が社会に受け入れられると、人間の社会に進化の段階性を見出す人々が現れるようになった。西欧近代社会を進化の頂点とみなす、この社会進化論はあらゆる人類が同じ発展をすると考える単一的発展史観(進化主義)を取るために、アジアやアフリカの諸民族の社会を「遅れた」「劣った」社会とみなした。そうした中、植民地の諸民族の文化と西欧文明との差異を観察し、帝国主義や植民地経営を正当化するための装置として機能したのが人間動物園である。各地の博覧会で余興として、または植民地経営を誇るものとして行われ人気を博した。

例えば、セントルイス万国博覧会の人類学展示は以下の目的のもと企画された。

  1. 身体的定義において、世界でもっとも知られていない、民族(ethnic types)、人種あるいは亜人種を展示すること
  2. 行動や精神的定義において、世界でもっとも知られていない文化の型(culutural types)を展示すること
  3. 人類の身体的、精神的特徴についての研究における、主要な方法や装置を展示すること
  4. 人類進化の階梯や過程における典型的な証拠を示すこと
  5. 統合と訓練によって加速される、野蛮や未開状態から文明に至る実際の人間の進化を示すこと

このような視点のもと、実際に諸民族の伝統的居住空間を展示会場に作り、そこで人々を生活させ、民芸品の作製や伝統芸能をみせる展示をした。入場制限はあるものの動物園のように必ずしも檻によって隔離されてはおらず、しばしば通訳がおかれたりするなど会話が出来るようになっている場合もあった。

人間動物園(Human zoo)という語は植民地研究の中で注目を浴び、主に英仏のカルチュラル・スタディーズの中で利用されるようになったものである[1][2] [3]

1920年代、フランツ・ボアズ文化相対主義マリノフスキーラドクリフ=ブラウン機能主義が勃興するとともに、人類学において進化主義は廃れ、民族学的な展示はエスノセントリズムから離れたものになるようになった。

人間動物園の研究は、それにまつわる差別の眼差しを批判的に捉える試みが多い。そのために、実際の展示や展示者の意図が、現代的な視点からは人権に配慮していないという問題があるにせよ、実際には進化主義的な視線がない只の余興的な展示であっても、過剰に”差別的な装置である”とされてしまっている例が存在することや、人間動物園を経験した観客・展示者の感想についての分析が乏しいという批判がある。例えば、フランスの植民地博覧会などでは、動物園と工芸品などの展示の間に人間動物園が設置されたことを指して、社会進化論が主催者や企画者の進化主義の証明とされているが、セントルイスや日英博などの展示は、参加国が各々人間の展示を行っていた部分もあり必ずしも進化主義が実証されているわけではない、というのが宮武の主張である。[4]

欧米における人間動物園の歴史[編集]

最初期の人間動物園[編集]

19世紀にロンドンで展示されたサールタイ・バートマンの戯画。 ホッテントットのヴィーナスとして知られる. コイサン人として生まれた

16世紀のルネサンス期、メディチ家の一員イッポーリト・デ・メディチバチカンメナジェリー(動物園)をつくり、種々の動物と同様に様々な人種を集めていた。彼の元には「野蛮人」、ムーア人アフリカ人インド人タタール人などがおり、20以上の言語が使われていたという。

18世紀、イギリスの王立ベスレム病院(ベドラム)では精神病患者が見世物とされていた。またイギリスでは16世紀から1868年5月26日までの間、市民の見物を前提とした公開処刑がタイバーンやニューゲイト監獄といった各地で行われており、その執行の様子は庶民の定期的な娯楽とされていた[5]

欧米社会における最初期の動物園は、メキシコモンテスマにつくられた。そこでは動物だけではなく、小人症アルビノ脊柱側弯症といった身体障害者も展示していた。[6]

例えば1835年2月25日、アメリカの高名な興行師P・T・バーナムは、黒人奴隷のジョイス・ヘスを161歳と謳い、またシャム双生児チャンとエンを見せ物とした。こういった展示は奇形による興行が主だったが、他民族に対する好奇心の歴史は、植民地主義と同じくらい歴史がある。例えばクリストファー・コロンブス1493年新世界西インド諸島からスペインの法廷に原住民のアメリカ人(後に「インディオ」、「インディアン」と呼ばれるようになった)を連れていった。他にも1815年に死ぬまでロンドンとフランスで展示されたホッテントットのヴィーナスとして知られるサールタイ・バートマンや、ウルグアイチャルーア人の絶滅に当たって、ウルグアイ政府当局とフランス人の手によってフランスに連行され、見世物にされた末に餓死した最後の族長バイマカ・ペルーも有名である。1850年代、メキシコから連れて来られた2人の小頭症の子供MaximoとBartolaは「アステカ族の子供」と「アステカ族リリパットの住民」として、米国とヨーロッパに展示された。

しかし人間を展示する「動物園」は1870年代に新植民地主義の中で一般的なものになった。

1870年代から第二次世界大戦まで[編集]

民族の生態的な展示は1870年代に様々な国で人気を集めた。ハンブルクアントワープバルセロナロンドンミラノニューヨーク、およびワルシャワの各地に人間動物園があり、20万人から30万人の観客を集めた。野生動物商で、のちにヨーロッパで多くの動物園を開業したカール・ハーゲンベックは、1874年に「完全に自然なままの」民族としてサモア人とサーミ人を展示した。 また1876年には、彼はエジプトスーダンから、野生動物とヌビア人を連れてこさせている。 ヌビア人の展示はヨーロッパで非常に成功し、パリ、ロンドン、ベルリンを巡業した。 また、彼はラブラドールホープデイルで多くの"エスキモー"(イヌイット)を手に入れた。このイヌイットはハンブルクのハーゲンベック動物園に展示された。

1877年ブローニュの森のジャルダン・ダクリマタシオン(順化園)の学芸員アルベルト・ジョフロア・ド・サンヒレアは、ヌビア人とイヌイットを紹介した二つの民族学的な展示をすることにした。結果年間訪問者数は100万まで倍増した。また1877年と1912年の間には、約30回の民族学的な催しがジャルダン・ダクリマタシオンで行われた。オーギュスト・コントの弟子のエミール・コラは、ここを訪問し、原始的な人種であっても利己主義よりも社交性が強いという仮説の検証をした[7]

こうした民族展示は、万国博覧会の格好の客寄せとして注目を浴びた。1878年パリ万博1889年パリ万博の両方において、黒人村(village nègre)というパビリオンが作られ、2800万人が訪問した。1889年の博覧会では主要展示として400人の先住民が展示された。 1900年のパリ万博ではマダガスカルの植民地集落が再現され生活展示が行われた。一方マルセイユ(1906年1922年)とパリ(1907年1931年)での植民地博覧会ではしばしば裸の、または半裸の人間の展示がなされた[8]。1931年のパリ植民地博覧会は半年に3400万人が訪れるほど成功した。もっとも反植民地主義の立場からの批判は当時から存在した。フランス共産党によって企画された”植民地の真実”と題する小さな展覧会では、植民地博覧会と同時に行われ、植民地経営によって植民地の住民が幸福になったという博覧会のプロパガンダとは対照的に圧政による抑圧や、農園での支配が告発されていた[9]。しかしそこにはほとんど人が訪れなかった。この展覧会の第一室は植民地における強制労働についてのアルベルト・ロンドレアンドレ・ジイドの評論家の記述を思い起こさせるものだった。セネガル遊牧民の村[10]も展示された。

オタ・ベンガ, 人の展示, 1906年

1883年、オランダ国立博物館の後背地で開催されたアムステルダム国際植民地輸出博覧会でもスリナム先住民が展示された。

1901年、汎アメリカ(フィラデルフィア)博覧会と1893年のコロンビア博覧会でも同様の展示が行われた。そこではベリーダンサーのリトル・エジプト(Little Egypt)が踊り、皮肉な伝説と共に、写真家のチャールズ・ダドリー・アーノルドとHarlow Higginbothamが「タイプ」に関するカタログとして表演する先住民という価値の下がる写真を撮った。

1896年、訪問者数を増加させるためにシンシナティ動物園は、100人のスー族インディアンに園内に村を設立するよう誘うと、スー族は3カ月動物園に生活した[11]

1904年アパッチ族、フィリピンのイグロット族、およびザイールピグミームブティ族であるオタ・ベンガは「原始的」というプレートをつけられ、セントルイス万国博覧会で展示された。米西戦争に続いて、米国はちょうどグアムや、フィリピンや、プエルトリコなどの新しい領土を取得したところだったのだが、何人かの原住民を「展示すること」にしたのだ[12]。 セコイア・アデ師によると

1904年に開催されたセントルイス万博において、合衆国は米比戦争における最終的な被害と、フィリピン人にもたらされた屈辱を連続して示すなど、フィリピンを中心的に展示した。熱狂的な「進化的発展のパレード」と呼ばれた展示の前に立てば、訪問者たちはラドヤード・キップリングの詩「白人の責務」を正当化する「文明的なるもの」の対になる「原始的なるもの」がどういったものかを知らしめされた。ニューギニアとアフリカからのピグミー (このアフリカ人は、後にブロンクス動物園の霊長類部門で展示された)は、アパッチ戦士ジェロニモなどのインディアンの横で練り歩かされ、ジェロニモはサインを販売することもした。

しかし中心的な展示は、後進性を示すために完全に復元されたフィリピン人の伝統的住居だった。その狙いは、米比戦争の直後にアメリカの統治による「文明化」の影響と、フィリピン諸島に存在する天然資源の経済的なポテンシャルの両方を強調することだった。伝えられるところによれば、それは博覧会で表示された中で最も大きい特定のアボリジニの展示品だった。 1人の嬉しい訪問者が論評したように、人間動物園展示は「世界が進歩する間に奇妙な有り様を示す民族、およびアメリカの力で文明的な労働者にされた野蛮人の物語」だったのだ。 [13]

楠本(2007)によれば、フィリピン村にはフィリピンの諸民族1200人[14]が集められたが、特にイグロット人の犬を食べる習俗が強調されたために、フィリピン人一般の話とアメリカ人に受け止められたのではないかという不満を、米国に留学していたフィリピン人学生が記録に残している。一方で植民地支配の正当化のために、教育施設や裁判所などのインフラの整備を行ったことが強調され、教育されたフィリピン人兵士がパレードを行った[15]

アフリカ人のピグミー、「オタ・ベンガ」

年齢:23歳。 身長:4フィート11インチ 体重:103ポンド カサイ川,コンゴ自由国、南中央のアフリカから、 サミュエルP.ベルネル博士によって持って来られた。

9月中、霊長類厩舎の外側に各午後に展示。

1906年9月、ブロンクス動物園[16]

1906年社交界の名士でアマチュア人類学者のマディソン・グラント(ニューヨーク動物学協会会長)が、ニューヨーク市のブロンクス動物園にコンゴのピグミーのオタ・ベンガを霊長類や他の動物と一緒に並べて展示した。グラントの指示のもと、著名な優生学者で動物園園長のウィリアム・ホルナディは、チンパンジー・Dohongと名づけられたオランウータン・オウムと並べてオタ・ベンガを置き、まるでオタ・ベンガが進化論的にヨーロッパ人よりサルの近くであるかのように、彼にミッシングリンクのレッテルを貼った。それは牧師からの抗議の引き金となったが、公衆はオタ・ベンガの展示を見るために群れたと伝えられている[17][16]

ベンガは弦を撚り、弓矢を放ちオランウータンと闘った。ニューヨークタイムズによれば「人間を猿の仲間として展示することに対する異議はほとんどだされなかった」が、ニューヨーク在住の黒人聖職者が激しく非難したので、論争は勃発した。「我々の人種について、類人猿と我々を継ぐものはほとんど消え去ったと考えています」と、ジェームズH.ゴードン師(ブルックリンのハワード黒人孤児院長)は語った。「魂において、我々が人間であると考えるのが正しいのです。」[18]

ニューヨーク市長ジョージ・B・マクレランJr.はその黒人聖職者に会うことを拒否した。一方でホルナディ博士を賞賛し、「動物園史が書かれるとき、この事件はその最も面白い挿話となるでしょう。」と彼に手紙をしたためた。論争は続いたが、ホルナディは弁解しないままでいた。彼のただ一つの狙いは「学術的な展示であると主張する」ことであった。別の手紙の中でボルナディは、10年後に人種差別的な小冊子“The Passing of the Great Race” を出版するニューヨーク動物学会の書記官マディソン・グラントと彼が、「黒人の聖職者によって社会が影響されてしまう、あってはならない緊急事態であった」と考えていたと綴っている。しかしホルナディはちょうど2日後に展示を閉じることに決めた。そして9月8日月曜日には、ベンガが動物園の敷地を歩いているのを発見されることとなった。彼はその後も群衆たちによって吠えられたり、あざけられたり、叫ばれたりすることが続いた。[18]

人間動物園の残滓[編集]

人間の動物園の概念は、完全にはなくならなかった。コンゴの村という展示は、1958年ブリュッセル万国博覧会でも行われた。[19]

1994年4月、ナントの近郊ポートサンペールのアフリカ風サファリに象牙海岸の村が作られた[20]

2005年7月、ドイツのアウクスブルクの動物園にアフリカ村落が作られた[21]。2005年8月、志願制であるがロンドン動物園においてイチジクの葉を着ている人間を展示した。2007年オーストラリアアデレード動物園は、教育運動の一環として、昼間類人猿厩舎内に収容されたいと申し込んだ人々から構成される人間動物園の展示を行った。住民はいくつかのエクササイズに参加し、新しい類人猿施設への寄付を客に求めた。またメルボルン動物園では人間の展示はないが、ポリネシアインドネシアタイなどの「民族」としての建造物が展示されており、これも博物学と民族学とが重なり合っていた分類の痕跡をしめすものである。2007年に、ブラザビル(コンゴ)で行われたパンアフリカ音楽祭において、ピグミーのパフォーマーは動物園を宿舎として提供され、物議をかもした[22]

日本による人間の展示[編集]

ヨーロッパ同様に日本にも見世物小屋において、奇形を売り物にする歴史があった。しかし、見世物は学術目的ではなく単純な好奇心を満たすことが閲覧の目的であるため、本項で言う人間の展示に含めることはできない。生活を紹介する展示というのは近代の中で現れてきたものである。

国際博覧会における日本の展示は当初、欧米人に対して自らエキゾチズムジャポニスムを前面に出すことから始まった。最初に参加した1867年パリ万博では伝統的な工芸・美術品の出品と同時に、日本茶屋というスペースにおいて、清水卯三郎に連れられた柳橋芸者が三人参加し、工芸品同様大きな人気を博した。こうした展示は数々の博覧会で好評を博し、特にゲイシャガールの人気はパリ万国博覧会 (1900年)会場近くの劇場で私的に公演されていた川上音二郎川上貞奴の人気からも窺える。

社会進化論や進化主義に影響された人間の展示は、1903年の大阪内国勧業博覧会に作られた「学術人類館」と、翌年のセントルイス万国博覧会のアイヌ村をまつ必要があった。

台湾総督府民政長官後藤新平理蕃政策などの成果を見せようと、「風俗文化産業の真相を内外人に示し、大に管内諸般の発達を図らむ」と、農業・園芸から台湾原住民漢民族習俗に至る一五部門の展示を行った。纒足の少女による喫茶は博覧会でも大きな話題をよんだ。 また留学先で見学した1889年のパリ万博の人間の生活の展示に深く感銘を受けた東京大学坪井正五郎[23]によって企画された学術人類館では

内地に近き異人種を集め、其風俗、器具、生活の模様等を実地に示さんとの趣向にて、北海道のアイヌ五名、台湾生蕃四名、琉球二名、朝鮮二名、支那三名、印度三名、同キリン人種七名、ジャワ三名、バルガリー一名、トルコ一名、アフリカ一名、都合三十二名の男女が、各其国の住所に模したる一定の区域内に団欒しつつ、日常の起居動作を見する

と欧米で行われていた人間の展示を模したものを行う予定であった。実際には外交ルートを通じて清朝が開催前に抗議し、朝鮮からも開会直後に抗議があったのでこれらの二民族は展示が取りやめられた。また沖縄県でも会期中に、自分たちの同胞がアイヌや生蕃などと同列に展示されることについて異議が新聞などで唱えられることとなった[23]。これは後に人類館事件と呼ばれたが、当時既にアジアにおいて人間の展示が、洗練と野蛮を展示するものであると理解されていたことがわかる。

アイヌ民族資料の万博展示は1873年のウィーン万国博覧会にまでその起源を遡ることができる。アイヌ=コーカソイド同祖説を類推していた地質学者ライマンは、1876年のフィラデルフィア万国博覧会にアイヌの参加を打診していた。しかし実現においては、1904年のセントルイスを待たなくてはならなかった。

1903年11月、セントルイス博の人類学部門責任者であるマクギーは正規の規格の一部としてワシントン日本大使館にアイヌの展示協力を詳細な計画書とともに依頼した。選定にはシカゴ大学の人類学教授のフレデリック・スターとアイヌ研究者であるジョン・バチェラーが協力し、9人のアイヌが旅券に北海道平民として記載され渡米した。9人は7ヶ月の長期滞在の間1日1円の報酬と民芸品の売上を獲得した。そのうち数名は日本語ができなかったと考えられている。文化程度の低い民族として選ばれたアイヌであったが、信仰心や勤勉さ、礼節について見学者から高く評価された[4]。また同時に開催されたセントルイスオリンピックの「人類学の日(Antropological day)」にもアイヌは参加した。このとき西欧社会にとって既に文明化されていた日本、清、東インド、セイロンの参加も予定されていたが、実際にはこれらの人々は参加しなかった[24]

1910年、ロンドンで催された日英博覧会の余興ゾーン[25]においてアイヌと台湾原住民パイワン族[26]に生活住居が作られ、住み込みの人間の展示が行われた。この展示は正規パビリオンで行われるような人類学的な展示や植民地の正当化を目的としたものではなく、余興として企画されたものであった。資料から、日本政府が自ら企画したのではなく、日本政府が演出をまかせた英国人シンジケートの発案であったことが推測されている。一方で、The Daily News誌によって「アイヌは世界でもっとも礼儀正しい人種である」しかし「台湾人とアイヌを混同視してはならない。台湾土人は礼儀正しくない」と報道されたり、前述の人類学者フレデリック・スターが「コーカソイドであるアイヌの民族的なサルベージ」を訴えた。選出に際しても熟練した日本語話者が選ばれ、アイヌに出された旅券はセントルイスの時と異なり、平民ではなく「空欄」であったりと、差別的な眼差しが派生していることも窺える。半年間の開催期間には多数の客が訪れ盛況であったために、参加者は報酬とチップを合わせると帰国後一年間働かなくてもよい収入があった程羽振りがよかったようだと、近隣のものが述懐する程であった[27]。同時に作られた日本の農村風景については、台湾日日新報が不適切であり、不当であったと批判している。

日英博覧会の「日本余興」は、客寄せと運営資金獲得の必要から重要視された計画であった。その企画・運営は日本人が為すべきと当初英国側から勧めがあったが、ヨーロッパ人の集客のための立案は日本人には不適と判断した日本政府は、英人「シンジケート」にそれを全面的に委託した。委託にあたっての方針としては「本邦の品位を損するものは一切之を許容せさること」とし、委託した博覧会事業者の希望を考慮した上で「台湾生蕃[28]の生活状態」を含む8項目の「余興」を容認したと、後に書かれた『博覧会事務局報告』は記している。

この「余興」について朝日新聞記者として特派された長谷川如是閑は、博覧会見聞ルポルタージュの中で『台湾村』について、「之を多くの西洋人が動物園か何かに行ったやうに小屋を覗いて居る所は聊か人道問題にして、西洋人はイザ知らず日本人には決して好んでかかる興行物を企てまじき事と存じ候。」と批判した。[29]。如是閑の批判の矛先は「博覧会会社」であるが、それは日本政府が全面委託した英人「シンジケート」を引き継いだ現地会社のことである。博覧会はなお続いたが、その後展示方法を変更したという記述は「日英博覧会事務局事務報告」にはない[30]

国内での人間の展示は続き、1912年の東京上野での拓殖博覧会[31]では、「オロッコギリヤック、樺太アイヌ、北海道アイヌ、台湾土人台湾蕃人の諸種族男女長幼総数18人」が会期中に自分たちの伝統的住居をつくり、そこで寝泊まりした。 1914年の東京大正博覧会では、これまでの博覧会同様にアイヌや台湾人と同時に、南洋諸島や東南アジアのベンガリ人・クリン人・マレー人・ジャワ人・サカイ人を集めた南洋館が作られた。博覧会主催者が配った冊子によれば、これらの人々は食人種と紹介され、鰐や大蛇、象などの展示に混じって生活の展示をさせられたという[32][33]

1916年の台湾勧業共進会では正規パビリオンの蕃俗館において、生人形や模型とともにツォウ族とタイヤル族の伝統的住居(蕃屋と称された)が作られ、また民間人がフィリピン人の農家を建てフィリピン人を住ませて生活の展示を行った。さらに1935年、台湾博覧会においても、会場内にタイヤル族の蕃屋が立てられ、男女が寝泊まりし日常生活をしめした。

日本がおこなった民俗紹介の展示は「人間動物園」という分析概念で必ずしも参照されているわけではないが、吉見俊哉は『博覧会の政治学』[34]において、上述したジャルダン・ダクリマタシオンの学芸員アルベルト・ジョフロア・ド・サンヒレアがヌビア人とイヌイットを紹介した二つの民族学的な展示を「人間動物園」と称し、それを日本が内国勧業博覧会や日英博覧会で導入したと主張している。

2009年4月NHKの番組「NHKスペシャル シリーズ 「JAPANデビュー」」第一回放映分において、日本が1910年に開催された日英博覧会でパイワン族の紹介を「人間動物園」と表現。これについて抗議の声があがり、パイワン族から名誉毀損であるという訴えがなされた。2013年11月28日、東京高等裁判所はパイワン族の展示と集合写真を「人間動物園」と表現したNHKに対し、名誉毀損として損害賠償を命じる判決を言い渡した。

諸民族の伝承に見られる人間と動物の関係[編集]

人間を動物扱いする人間動物園は、洗練さと野蛮についてのエスノセントリズムを進化主義によって粉飾した近代欧米発祥の装置である。一方『人間を動物と同一視する』という思想は目新しいものではなく、アフリカやアメリカ先住民やアジアの民間伝承においては、祖先を動物とする思想(トーテム)持っていたり、人間と動物は変身可能な対等な存在であると位置づけられていることがしばしばある。例えばギニアには、猿は本当は喋れるが白人に奴隷にされないよう喋れない振りをしているのだ、という話が有る[35]し、ボノボの生息地に生きるバンツー系民族の焼畑農耕民バンガンドゥは、ビーリヤ(ボノボ)と人は同祖であり、兄弟であるという民話をもつ[36]

この様な『人間も動物の仲間である』という動物観に基づいて行う人間の展示が、過去の人間動物園の様に社会進化論の影響として批判・議論される事は無い。例えば、日本モンキーセンターには人間が檻に入っているように撮影出来る所が有る事が知られている。同施設の設立理由は

ここに財団法人日本モンキーセンターを設立し、上記の研究を進めるとともに、その研究の成果をもって野生ニホンザルの保護繁殖およびその技術的指導をし、今日急激に需要を増してきた実験用サルの研究者への供給を行い、あわせて人類起源の探究に着眼した「サル類動物園」を設置経営し、学術教育および文化の発展に寄与せんとするものである。

設立趣意書

とあり、元々進化研究と関連がある。この様な人間とサルの連続性を語る行為が、ポストコロニアル理論の下批判される事は無い。 2009年11月27日から29日までの期間、ポーランドのワルシャワの動物園も同じ趣旨で同様の展示を行っていた[37]

脚注[編集]

  1. ^ Pascal Blanchard, Sandrine Lemaire and Nicolas Bancel (2000年8月). “Human zoos - Racist theme parks for Europe's colonialists”. Le Monde Diplomatique. http://mondediplo.com/2000/08/07humanzoo  (英語); “Ces zoos humains de la République coloniale”. Le Monde Diplomatique. (2000年8月). http://www.monde-diplomatique.fr/2000/08/BANCEL/14145.html  (フランス語) (available to everyone)
  2. ^ (フランス語) Cobelco. Belgium human zoo; “Peut-on exposer des Pygmées?”. Le Soir. (2002年7月27日). http://www.cobelco.org/Library/Soir_peutonexposerdespygmees.htm 
  3. ^ (フランス語)Barlet, Olivier and Blanchard, Pascal, "Le retour des zoos humains", abridged in "Les zoos humains sont-ils de retour?", Le Monde, June 28, 2005.
  4. ^ a b 宮武, 公夫「博覧会の記憶 : 1904年セントルイス博覧会とアイヌ (PDF) 」 、『北海道大学文学研究科紀要 = The Annual Report on Cultural Science』第118巻、北海道大学文学研究科= The Faculty of Letters, Hokkaido University、Feb 28 2006 2006、 pp.45-93。
  5. ^ 黒い快楽
  6. ^ Mullan, Bob and Marvin Garry, Zoo culture: The book about watching people watch animals, University of Illinois Press, Urbana, Illinois, Second edition, 1998, p.32. ISBN 0252067622
  7. ^ 山下雅之 「正統派実証主義からみた生物学と民族学」『コントとデュルケームのあいだ』 木鐸社、1996年
  8. ^ On the 1931 Colonial Exposition in Paris
  9. ^ パトリシア・モルトン 『パリ植民地博覧会 : オリエンタリズムの欲望と表象』 長谷川章訳、星雲社、東京、2002年9月(原著2000年)。ISBN 4434022032
  10. ^ 吉見(1992)によれば、セネガル人たちは複数の部族の寄せ集めで、彼ら自身の本来のものではない儀礼の演義をした。
  11. ^ Anne Maxell, "Montrer l'Autre: Franz Boas et les soeurs Gerhard", in Zoos humains. De la Vénus hottentote aux reality shows, Nicolas Bancel, Pascal Blanchard, Gilles Boëtsch, Eric Deroo, Sandrine Lemaire, edition La Découverte (2002), p.331-339, in part. p.333
  12. ^ Jim Zwick (1996年3月4日). “Remembering St. Louis, 1904: A World on Display and Bontoc Eulogy”. Syracuse University. 2007年5月25日閲覧。
  13. ^ Sequoyah Ade. 2004. "The Passions of Suzie Wong Revisited, by Rev. Sequoyah Ade". Aboriginal Intelligence
  14. ^ イグロット人だけでなく、バコボ人モロ人など多くの民族が集められた
  15. ^ 楠元 町子 (2007). “国際関係史から見た万国博覧会 : 一九〇四年セントルイス万国博覧会を中心に”. 法政論叢 43 (2): pp.22-38. http://ci.nii.ac.jp/naid/110006343461. 
  16. ^ a b "Man and Monkey Show Disapproved by Clergy", The New York Times, September 10, 1906.
  17. ^ Bradford, Phillips Verner and Blume, Harvey. Ota Benga: The Pygmy in the Zoo. St. Martins Press, 1992.
  18. ^ a b Keller, Mitch (2006年8月6日). “The Scandal at the Zoo”. New York Times. 2008年7月7日閲覧。
  19. ^ (フランス語) Cobelco. Belgium human zoo; “Peut-on exposer des Pygmées?”. Le Soir. (2002年7月27日). http://www.cobelco.org/Library/Soir_peutonexposerdespygmees.htm 
  20. ^ Barlet, Olivier and Blanchard, Pascal, "Le retour des zoos humains", abridged in "Les zoos humains sont-ils de retour?", Le Monde, June 28, 2005. (French)
  21. ^ (英語) (フランス語) “Vers un nouveau zoo humain en Allemagne? (original text in English below the French translation)”. Indymedia. (2005年12月6日). http://grenoble.indymedia.org/index.php?page=article&filtre=1&numpageA=3&id=1635 ; (英語) “England Hacks Away at the Shaken EU”. Der Spiegel. (2005年6月6日). http://service.spiegel.de/cache/international/0,1518,359304,00.html ; “A Different View of the Human Zoo”. Der Spiegel. (2005年6月13日). http://service.spiegel.de/cache/international/0,1518,360267,00.html ; “Zoo sparks row over 'tribesmen' props for animals, by Allan Hall”. The Scotsman. (2005年6月8日). http://news.scotsman.com/international.cfm?id=627152005 ; Critical analysis of the Augsburg human zoo ("Organizers and visitors were not racist but they participated in and reflected a process that has been called racialization: the daily and often taken-for-granted means by which humans are separated into supposedly biologically based and unequal categories", etc.)
  22. ^ London Zoo official website;“Humans strip bare for zoo exhibit”. BBC News. (2005年8月25日). http://news.bbc.co.uk/1/hi/england/london/4184466.stm ;“Humans On Display At London's Zoo”. CBS News. (2005年8月26日). http://www.cbsnews.com/stories/2005/08/26/world/main798423.shtml ;“The human zoo? by Debra Saunders (a bit more critical)”. Townhall. (2005年9月1日). http://www.townhall.com/columnists/DebraJSaunders/2005/09/01/the_human_zoo 
  23. ^ a b 松田京子 『帝国の視線—博覧会と異文化表象』 吉川弘文館、2003年ISBN 4642037578
  24. ^ 宮武, 公夫「人類学とオリンピック : アイヌと1904年セントルイス・オリンピック大会」、『北海道大学文学研究科紀要 = The Annual Report on Cultural Science』第108巻、北海道大学文学研究科= The Faculty of Letters, Hokkaido University、 pp.1-22。
  25. ^ 当時の余興という言葉は遊興施設や歌舞音曲などのアトラクションの総称であり、取るに足らない芸という意味ではない。実際に、日英博覧会の7年前(1903年)に大阪で開催された第五回内国勧業博覧会において、会場に設営された動物園、メリーゴーラウンド、ウヲータシユート(ウォーターシュート)などの施設はすべて「余興」と表記されていた。
  26. ^ "「アジアの“一等国”」". NHKスペシャル シリーズ「JAPANデビュー」. NHK. NHK総合. 2009年4月5日放送. 1回.
  27. ^ 宮武, 公夫 (2005). “黄色い仮面のオイディプス : アイヌと日英博覧会”. 北海道大学文学研究科紀要 = The Annual Report on Cultural Science (北海道大学文学研究科= The Faculty of Letters, Hokkaido University) 115: pp.21-58. http://hdl.handle.net/2115/34083. 
  28. ^ 生蕃とは台湾の原住民のうち、漢人化していない野蛮人という意味を帯びている
  29. ^ 『欧米遊覧記』の 「日英博覧会(如是閑)」 大阪:朝日新聞、明43.10
  30. ^ 「日英博覧会事務局事務報告」第17章 日本余興、農商務省, 明45.3
  31. ^ 金田一京助がアイヌ語研究に着手したきっかけと知られる
  32. ^ ただし山路(2008)は、大衆向けに下世話な話を誇張しただけかもしれないと事実関係については保留している
  33. ^ 山路勝彦 (2004). “拓殖博覧会と「帝国版図内の諸人種」”. 関西学院大学社会学部紀要 (97): pp.25-40. http://ci.nii.ac.jp/naid/110002961569/. 
  34. ^ 吉見俊哉 (1992). 博覧会の政治学——まなざしの近代. 中公新書. ISBN 978-4121010902. 
  35. ^ The Voyage of Hanno According to what I have been told, the natives of the Gulf of Guinea used to tell that the anthropoidal apes really are humans who pretend not to be able to speak, lest the white man put them to work.
  36. ^ 加納隆至、加納 典子 『エーリアの火 自然誌選書アフリカの密林の不思議な民話』 どうぶつ社、1987年3月ISBN 4-88622-231-5
  37. ^ 「穴居人」展示します、ポーランドの動物園がユニークな試み 写真8枚 国際ニュース : AFPBB News

参考文献[編集]

  • ケン・ハーバー『父さんのからだを返して 父を骨格標本にされたエスキモーの少年』早川書房 2001年 ISBN 978-4152083654
  • シオドーラ・クローバー『イシ 二つの世界に生きたインディアンの物語』岩波書店 1977年 ISBN 978-4001106909
  • 吉見俊哉著『博覧会の政治学——まなざしの近代』中公新書 1992年 ISBN 978-4121010902
  • 山路勝彦, 近代日本の植民地博覧会, 2008, 風響社 ISBN 4894891255

関連項目[編集]

外部リンク[編集]