于山国

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新増東国輿地勝覧』(1530)より「朝鮮八道総図」
鬱陵島の西側に「于山島」の名が確認できる。

于山国(うざんこく)は、現在の鬱陵島を領土とし、太古に存在していたと記録される国である。朝鮮半島の史書には、512年に朝鮮本土の新羅に服属させられたと記録される。しかし、11世紀初頭には女真の海賊の侵攻によって滅びたと考えられている。

概要[編集]

韓国では、于山国の領土を現在の鬱陵島とその周辺の島であるとし、現在の竹島(韓国名・独島)を含むと主張している。また、竹島(韓国名・独島)を于山島であるとしているが、于山国の記述のある『三国史記』には周辺の島のことは全く記されていない。

史料が少ないため、「于山国」の詳細はよく分かっていない。しかし、山名と見なされる「于山」、および、島の名である「于山島」は朝鮮の史書・地理書には数多く登場する(→記事「 于山島 」参照)。ただし、于山が竹島(独島)を明瞭に指し示している事例は存在しない。

『三国史記』に登場する于山国[編集]

1145年に編纂された朝鮮半島に残る最古の文献史料『三国史記』によると、太古に誕生した国家であったが三国時代512年に朝鮮半島南東部にあった新羅の計略によって服属させられたとしている。

于山国のことが記されている『三国史記』の原文[編集]

『三国史記』巻第四 新羅本紀 智證麻立干紀

十三年夏六月 于山国帰服 歳以土宜為貢 于山国在溟州正東海島 或名欝陵島 地方一百里 恃嶮不服 伊飡異斯夫 為何瑟羅州軍主 謂于山人愚悍 難以威来 可以討服 乃多造木偶師子 分載戦船 抵其国海岸 誑告曰 汝若不服 則放此猛獣踏殺之 国人恐懼則降

(可読性向上のため空白を入れ、固有名詞以外は旧字体を新字体に変更している)

原文(8ページ参照)(PDF)

翻訳[編集]

『三国史記』巻第四 新羅本紀 智証麻立干紀

智証麻立干)十三年(512年)夏六月、于山国が服属し毎年土地の産物を貢いだ。于山国溟州(現在の江原道江陵市)のちょうど東の海の島にあり、別名を鬱陵島という。外周は百里ほどで、渡航が困難なことを恃みにして服従しなかった。何瑟羅州の軍主となった伊飡異斯夫が言うには、于山人は愚かで凶暴である。威嚇するのは難しいが計略をもってすれば服従させることができる。そこで木製の獅子の像を多く造り戦艦に分けて載せその国の海岸に着くと、誑かして「お前たちがもし服属しなければ、すぐにこの猛獣を放ち踏み殺させるぞ。」と告げると、于山国人は恐れ慄きすぐに降伏した。

解説[編集]

このようにして、6世紀に于山国が新羅の属国となったことがたとえ史実であるとしても、新羅が于山国を直接支配しているわけではないことがうかがえる。また、『三国史記』編纂時期より500年も前のできごととして記されており、「獅子の像に、恐れ慄きすぐに降伏した」などの記述は史実というよりは、創作の可能性が高い。さらに、現代の地理にあてはめると、「別名を鬱陵島という」ことだけが唯一の情報であり、竹島(独島)を含むとは書いていないところから、竹島問題において、韓国側の主張は必ずしも充分な説得力をもつには至っていない。

『東国輿地志』にみえる于山[編集]

李氏朝鮮柳馨遠による『東国輿地志』(1656年)によれば、

『東国輿地志』巻之七 江原道 蔚珍

于山島 欝陵島
一云武陵 一云羽陵 二島在県正東海中 三峯及業掌空 南峯梢卑 風日清明則峯頭樹木 及山根沙渚 歴々可見 風便則二日可到 一説于山 欝陵 本一島 地方百里

とある。

「于山」関連の朝鮮の古地図[編集]

関連項目[編集]