豫州
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豫州(よしゅう)は、中国の歴史的な州の一つ。ここでは旧字体で豫州と表記するが、常用漢字の表記に従った現代文では予州とするのが正しい。
上古の中国の九州のうち中心にあたる地域とされている。具体的な区域については、『尚書』では「荊河」、荊山から黄河までの区域とし、『爾雅』、『周礼』では「河南」、黄河の南側の区域とし、『呂氏春秋』では「河漢之間」、黄河から漢水までの区域とし、また「周である」とする。いわゆる「中原」と呼ばれる地域であり、古代中国文明の中心地を指す名称であった。『晋書』「地理志」によれば「豫は舒(穏やか)ということである。中和(中央にあって静かで偏りのない)の気を受けて、本質が穏やかであることを言う。」と説明する。
前漢の武帝の元封元年に全国に13州に分割し各州に刺史を置いた際、河南省の大部分と安徽省の一部を豫州として、潁川、汝南、梁、沛、魯の5郡国を属させた。
前漢滅亡後の混乱期には、軍閥の劉永が豫州に割拠したが、光武帝に攻め滅ぼされた。後漢に入って譙を州治とした。
後漢末の混乱期になると、軍閥の曹操が献帝を豫州の許県に移住させ、この地を都とした。魏が興ると都を洛陽に移し、許は許昌と改名して五都の一とした。黄初2年に項を州治とした。さらに太和元年に安成を州治とした。
325年(太寧3年)に豫州は石勒の手に落ち、その後後趙から豫州刺史に任ぜられた羌族の首長の姚襄は、豫州で半独立の勢を保つが桓温に打ち破られた。その後、前秦は洛陽の西に豫州を移した。後燕以後は洛陽周辺を豫州とした。一方で南に逃れた東晋は329年(咸和4年)に江淮に僑州として豫州を設置した。その後対北戦線の戦況によってその治所は目まぐるしく変化した。
北魏は洛陽周辺を司州とし、豫州を河南に移した。後周は豫州を要地として総管府を置いた。一時期舒州と改名されたが、再び豫州に戻った。隋の大業元年に豫州を溱州と改名し、洛州を豫州(河南郡)とし再び洛陽周辺を管轄する州となった。唐に入って再び洛州に改名され、以後豫州の名称は使用されなくなった。


