九五式小型乗用車

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九五式小型乗用車
日本内燃機
ノモンハン事件でソ連赤軍鹵獲された九五式小型乗用車
Battle of Khalkhin Gol-Captured Type 95 scout car.jpg
製造国 日本の旗 日本
販売期間 1936年 - 1944年
デザイン 蒔田鉄司
乗車定員 2名/3名/4名
ボディタイプ 2ドアフェートン
ロードスター
エンジン 1.2L\1.3L/1.4L V型2気筒OHV強制空冷エンジン
最高出力 33PS/3,300rpm
駆動方式 四輪駆動車
サスペンション 前: ウィッシュボーン式独立懸架
後: 半楕円リーフスプリング支持の固定軸
全長 3,600mm
全幅 1,300mm
ホイールベース 2,000mm
-自動車のスペック表-

九五式小型乗用車(きゅうごしきこがたじょうようしゃ、九五式小型乘用車)は、大日本帝国陸軍の小型軍用乗用車。通称・愛称はくろがね四起(-よんき)。

日本初の国産実用四輪駆動車として日本内燃機(のちの東急くろがね工業、現日産工機の前身)が開発し、日中戦争支那事変)・第二次世界大戦における帝国陸軍の主力乗用車として使用された。「くろがね四起」の通称は、日本内燃機のオート三輪車ブランドとして当時著名だった「くろがね」と「四輪起動」にちなむ。

概要[編集]

1934年(昭和9年)、帝国陸軍は不整地走行性能に富む小型の偵察斥候)・連絡(伝令)・人員輸送用車両の開発を、日本内燃機・豊田自動織機自動車部トヨタ自動車)・発動機製造(ダイハツ工業)・岡本自転車自動車製作所の各自動車メーカーに依頼した。試作型の評価の結果、最も優れていた日本内燃焼製が制式採用され、1936年(昭和11年)から量産された。当時の量産軍用車としては国産初の四輪駆動機構を備え、道路整備状況の悪い中国大陸東南アジア方面などで極めて良好な走破性を発揮した。

ドイツ陸軍キューベルワーゲンアメリカ陸軍ジープ(ウイリス・MB/フォード・GPW等)に相当する車輌であり、それらに先駆けて開発されていた点と走破性の高さは特筆に値するが、軽トラック的な貨客両用運用もなされたそれらと比較して、本車は純粋に人員輸送用の乗用車として開発されており搭載量には劣った。その用途はあくまで偵察・連絡用のオートバイサイドカー九三式側車付自動二輪車九七式側車付自動二輪車等)を代用する程度に留まるものであった。

他の列強各国に比べ量産技術に劣った当時の日本はモータリゼーションも進んでおらず、にもかかわらずその少ないリソースは陸軍と海軍とで分断され、かつ陸軍内部においても航空兵器等やトラック(九四式六輪自動貨車等)の生産が優先されていたため本車の総生産数は5千台以下と少なく、米独の2車のように軍事上の戦術的・戦略的影響を顕著に残すことはなかった。

本車は日中戦争やノモンハン事件を通し、太平洋戦争大東亜戦争)敗戦に至るまで陸軍主力乗用車として多くの戦線や日本内地で使用され、一部は海軍にも供与されている。基本的にフロントグリルには陸軍を表す五芒星(五光星)の金属星章を付していた。ボディの変更や座席増などのマイナーチェンジを併せて、1944年(昭和19年)までに計4,775台が生産された。

形式[編集]

以下、各モデルを示す[1]。なお、ここに記した生産型A~Cは形式を区別する便宜的なもので制式名称ではない。

プロトタイプ
1935年試作型。排気量1200cc。ロードスター型とセダン型が試作された。(ラジエーター)グリルは長方形。バンパーは無い。
生産型A
1937~38年型。排気量1300cc。3名乗りロードスター型。グリルは小判型。このモデルよりバンパーを装着。
4ドア試作型
1939年に1台だけ試作された4ドアのフェートン型。ホイールベースが延長され観音扉式のドアを持つ。エンジンの詳細は不明だが、空冷ではなく水冷説有り。グリルは正方形。
生産型B
1939~43年型。排気量1400cc。4名乗りフェートン型。生産台数最多モデル。グリルは正方形。
生産型C
1944年型。排気量1400cc。2名乗りピックアップトラック型。車種が小型貨物自動車に変更された最終生産モデル。グリルは蝶が左右に展翅した様な、特徴的なバタフライ型。

なおサイドカーと同じく軽戦闘車両として助手席には軽機関銃十一年式軽機関銃九六式軽機関銃九九式軽機関銃)を装備可能で、また大戦最末期にはグライダー空挺部隊である滑空歩兵連隊が、機関砲を装備した本車(ク8-IIに搭載)をもって沖縄のアメリカ軍陣地に挺進・強襲する計画があった[2]

構造[編集]

開発者は日本内燃機の創業者でもある技術者の蒔田鉄司である。蒔田は1920年代-1930年代の日本では卓越した自動車技術者の一人で、古くは豊川順彌によって設立された初期の国産自動車メーカー「白楊社」で小型四輪車「オートモ号」の開発に携わり、オート三輪業界では自社開発エンジン搭載の「ニューエラ」(のち「くろがね」と改称)で市場のリーディングメーカーとしての地位を確立していた人物であった。

右ハンドル車で車幅は1.3m足らずと狭く、腰高で、ジープやキューベルワーゲンに比べると重心は高めだった。幅の狭い鋼製梯子形フレームをベースとしたシャーシは2,000mmのショートホイールベースで、通常駆動に常用される後軸は半楕円リーフスプリング支持の固定軸であるが、前輪はコイルスプリング支持の一種のウィッシュボーン式独立懸架としていた。前輪への駆動力伝達は副変速機によるパートタイム式で、この時代の四輪駆動車の例に漏れず四輪駆動は駆動力を要する非常時のみ、通常時は後輪のみで走行する。このため、ジョイントはもっとも構造の簡単なダブルカルダンジョイントで済ませている。

開発に際しては水平対向エンジンの採用も検討されたが、満州の寒冷な荒蕪地での運用を考慮し、トルクがあって構造簡易で冷却水凍結の問題も生じず、また日本内燃機自身の技術ノウハウも活かせる、バンク角45°のV型2気筒OHV強制空冷エンジン(排気量1.4L 33PS/3,300rpm)が採用された。基本設計は、イギリス製オートバイ・サンビームの単気筒エンジンを多く参考に開発された日本内燃機のオート三輪・二輪車用既存エンジン「JAC・ザイマス」がベースである。

原型は自然空冷・単気筒であるが、倍のV型2気筒化されてプロペラファンを装備した強制空冷となり(冷却効率を上げるシュラウドは設けられなかった)、更にドライサンプ仕様とされた。アメリカのシェブラーの設計をコピーしたキャブレターをVバンク中央後方に配置したシングル・キャブレター仕様で、インテークマニホールドで左右に分配した。

このエンジンは、前方配置のパイプ製マウントフレームで上部から吊られるように搭載されていた。前輪差動装置真上に位置するため重心が高くなり、水平対向式に比して振動も大きいという欠点はあったが、陸軍の要求事項を満たす見地からもやむを得ない選択であった。陸軍にオートバイ用エンジンとしての実績があるV型2気筒レイアウトへの執着があったことも一因である。後に拡大型も少数製造されている。

手作りに近い生産体制であったため、ボディの細部の変更は年々多岐に及んでおり、初期の試作車では2ドアセダンボディを架装したこともあったが、量産車の多くはドアを持たず、幌屋根のフェートン型とした軽快なボディを架装した。このためボディの長さは一定ではないが、通常3.6m弱程度の仕様であった。

現存車[編集]

日本国内では後期型トラックタイプが石川県小松市日本自動車博物館に、九四式六輪自動貨車甲ともども極めて良好な状態で収蔵・展示されている。海外ではロシアモスクワにある「Retro Auto Museum」に比較的良好な状態で収蔵・展示されている。また、アメリカのペンシルバニア州にある「Redball Military Transport Club」が九五式小型乗用車を保有している。

4台目の現存車の発見[編集]

近年までは上記の3台が世界中に現存する九五式小型乗用車の全てと考えられていたが、2013年に入って京都市内の自動車修理工場「日工自動車」に、初期型ロードスタータイプがほぼ原型を留めた状態で現存しているのが、静岡県のNPO法人「防衛技術博物館を創る会」により「再発見」された。この個体は1954年(昭和29年)頃に、日工自動車が日本内燃機自動車ディーラーを請け負っていた伝で入手したとされるもので、当時の時点では実働車であったという。また、この個体をモデルにタミヤが同型のプラモデルを製作販売している。今回の「再発見」は、タミヤからの情報を元にNPO法人代表で作家の三野正洋が工場を訪ねたところ、改めて現存が確認されたもので、同NPO法人は復元を前提に同社社長より車体の譲渡を受け、クラウドファンディングの手法で資金を集めつつ、走行可能な状態までのレストアを目指すとしている[3]

登場作品[編集]

脚注[編集]

  1. ^ データは月刊『Hobby JAPAN』1976年4月号、P50~51「イラストにみる日本軍用車両史」より。
  2. ^ 幻の「滑空飛行第一戦隊」
  3. ^ 甦る“昭和”、世界初・小型四駆「くろがね四起」…超レア、1000万円で復元目指す - MSN産経ニュース 2014年3月17日

関連項目[編集]

外部リンク[編集]