中野 (中野区)

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中野
中野サンモール商店街 (2020年)
中野サンモール商店街
(2020年)
中野の位置(東京都区部内)
中野
中野
中野の位置
北緯35度42分17.66秒 東経139度40分12.81秒 / 北緯35.7049056度 東経139.6702250度 / 35.7049056; 139.6702250
日本の旗 日本
都道府県 東京都
特別区 中野区
面積
 • 合計 1.47 km2
標高
37.6 m
人口
2017年(平成29年)12月1日現在)[2]
 • 合計 27,111人
 • 密度 18,000人/km2
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
164-0001[3]
市外局番 03[4]
ナンバープレート 練馬
中野ブロードウェイ
中野サンモール商店街と直結している

中野(なかの)は、東京都中野区町名。現行行政地名は中野一丁目から六丁目。郵便番号は164-0001[3]

中野駅前を中心に繁華街オフィス街が形成され、駅周辺には閑静な住宅地も広がる。現在、駅周辺では大規模な再開発が進められており、2012年には中野四季の都市が街開きしている。

地理[編集]

概要[編集]

中野区中央部に位置する。東部は中野区東中野、南部は大久保通りを境に中央になる。北部は早稲田通りを境に新井野方上高田と接し、西部は杉並区高円寺南・高円寺北に接する。

中野駅はJR中央線快速中央・総武緩行線東京メトロ東西線が乗り入れるターミナルで、2014年度の一日乗車人員は140,587人と、JR東日本の管轄内で19番目に多い[5]

中野駅前を中野通りが縦貫し、沿道に中高層建築が立ち並ぶ一方、駅周辺以外は住宅街となっている。いわゆる「木賃ベルト地帯」の一角であり[6]木造の賃貸物件で一人暮らしをしている若年層の住民も見られる。

なお、駅北口および警察大学校跡地を中心に大規模な再開発事業が行われており、一部が2012年に中野四季の都市(なかのしきのまち)としてオープンした。駅南口でも2011年には丸井中野本店がリニューアル、2012年には中野ツインマークタワーが竣工するなど、街並みが変貌しつつある。中野駅周辺の昼間人口は再開発前より約2万人増加した[7]。これにより2013年度の駅利用者数は前年より10.8%増加した。

2014年7月1日の都道府県地価調査によれば、商業地の地価は中野5丁目64-9の地点(中野駅から約70m)で、1平方メートルあたり3,000,000円である[8]

2015年1月1日の公示地価によれば、住宅地の地価は中野3丁目23-46の地点(中野駅から約500m離れた「中規模以上の住宅の多い閑静な住宅地域」)で、1平方メートルあたり665,000円である[9]。鑑定評価書によれば当該地域は「利便性の高さも兼ね備える高級住宅エリアで、区画整然と邸宅が建ち並び、優良な住環境を形成している」地域であるとされる[10]

商業地[編集]

中野駅前には中野区役所中野サンプラザ中野サンモール商店街中野ブロードウェイ中野マルイ(旧・丸井中野本店)などがある。

上記をはじめとする商業ランドマークが存在するほか、中野駅徒歩数分程度の狭い範囲に多数の商店街が集中している。特に駅北口東側は城西地域・中央線沿線屈指の繁華街であり、駅周辺の半径500mに小売事業所数304件、飲食店事業所数220件が集積する[11]

2007年の中野駅から半径1km圏内の小売業年間商品販売額は1188億0905万円である[12]。このうち中野駅南口は「ファッション関係の店舗の年間商品販売額の割合が高い商業集積地区」の中で、285億300万円の年間商品販売額(都内12位)を誇り、「中野駅北口」は秋葉原と同じ「何にも特化し難い商業集積地区」で505億3600万円(同9位)を記録している[13]。一方で性風俗産業などの集積は、同規模の商業地である錦糸町五反田などと比較してほとんど進んでおらず、ほぼ純粋な飲食店街を形成している。

近年は、中野ブロードウェイをはじめオタクサブカルチャー関連産業の集積が顕著であり、また、数々の声優アイドルグループが中野サンプラザなどでイベントを開催することから「オタク・アイドルの聖地」として知られ「西の秋葉原」の異名を持つ[14]。駅近辺ではアニメやコスプレ関連のイベントが頻繁に開かれている。

主な商店街[編集]

出典:「中野区商店街ナビ」中野区商店街連合会[15]

駅北口
  • 中野サンモール商店街 - 中野駅北口と直結する全長240mのアーケード商店街で、中野ブロードウェイとも直結している。飲食店や酒場は少ない一方で衣料品店が多い。
  • 中野北口一番街商店街
  • 中野北口二番街商店街
  • 中野北口狸小路商店街
  • 中野北口三番街商店街
  • 中野北口白線通り商店街
  • 中野新仲見世商店街
  • 中野ふれあいロード商店街
  • 中野北口昭和新道商店街
  • 中野ブロードウェイ - サブカル関連の希少なグッズを扱う店舗やメーカーが多く集まるショッピングセンターで、ここでしか入手できない商品も存在することから海外からも多くの観光客が訪れる。
  • 中野早稲田通り商店街
  • 中野北口五番街商店街
  • 天神商栄会
駅南口

住宅地[編集]

駅周辺は商業地が中心だが、少し離れると閑静な住宅地である。住宅地の少ない中野四丁目を除けば人口密度は高いが、新宿まで一駅と都心にもほど近く、閑静で犯罪発生率も低いため人気のある住宅地となっており、2014年のリクルート「SUUMO」による「住みたい街ランキング」でに1位となっている[16]

歴史[編集]

地名の由来[編集]

現在の中野区一帯は、武蔵野[注釈 1]の中央に位置することから「中野」と呼ばれるようになった。こうして誕生した中野村に1889年に中野駅(当時の甲武鉄道)が開業したことから「中野駅前」という町丁が誕生、住居表示の際に周辺とともに「中野」に改められた。

江戸期[編集]

徳川綱吉が発布した生類憐れみの令に関連して、1695年に囲町地区(現・中野四丁目)などに、野犬を収容し世話するための大規模な犬屋敷が設置された。医者や役人が配備された計5つの囲いの中に、最盛期には10~30万頭がいたとされ、当地に集落が形成され「囲町」の名前の由来となった[17]。なお、当時の中野村の中心地は、青梅街道に面した現在の本町にあたる地域であった。また、徳川吉宗の時代には旧・桃園町域(現・中野三丁目)にの名所が作られ、地名の由来となった。江戸後期には一般庶民も花見に訪れるようになり、隅田川や飛鳥山のと併せて現代の花見のルーツとされる[18]。その他の地域では畑作と、製粉、味噌醤油醸造などの食品工業が整備された。特にそば粉の生産は有名であり、江戸で消費されるそば粉のほとんどが「中野そば」だったとされる[19]

近代[編集]

明治時代に甲武鉄道が開通すると、当時は駅前だった桃園通りから市街化が進んだ。次いで囲町集落の住民や、新井薬師堀ノ内妙法寺への参拝客の利用が増加し、参道商店街が作られるなど急速に都市化したが、明治後期でも駅周辺には麦畑が残っていた[20]

1896年には陸軍電信隊・鉄道隊・気球隊の施設が、次いで陸軍憲兵学校が現在の区役所付近に作られた。日露戦争後に御茶ノ水 - 中野間の運転間隔が10分になるなど、甲武鉄道の輸送改善が進むと都市化が本格化し、陸軍施設の関係者が住む街である一方で、高所得者の別荘がある郊外住宅地としての環境が整った[21][22]

大正に入ると駅の乗降客数も増加し、中野は都心部へ通勤する人々のベッドタウンとして成長を遂げ、現在のサンモール周辺にも商店ができ始めた。関東大震災後には、甚大な被害を受けた下町から膨大な人口が流入したことで宅地開発に拍車がかかり、早稲田通りから現在の中野ブロードウェイの一部にかけて模範市場が作られるなど、商業の集積が顕著になった。

1929年、中野通りを陸橋化し、中央線と立体交差させる計画が発表されたが、当時の道路状況では粉塵が橋下の商店に飛散する恐れがあり、駅北側の商店主が反対した。その結果、駅は現在地に移り北口が新設され、中野通りは線路の下を通すこととなった。この時、上記の商店主らを中心に駅北口周辺一帯の地盤を現在と同じ高さにまで掘り下げる工事を自ら行った[23]。1931年には中野では初のデパートとして丸井が開店し、城西地域を代表する広域商圏を持つ商業地に成長した[24]。1937年には現在の三番街までだった「仲通り」商店街(現在の中野サンモール)が、現在の中野ブロードウェイの入口地点まで延伸された。当時は年中無休で23時頃まで営業していたという[23]

同1937年には陸軍中野学校が囲町に作られ、1945年5月25日の山の手空襲では中野区一体も標的となったが、駅周辺は焼失を免れ、終戦後には陸軍の土地に米軍が駐屯し、駅前は米軍の物資の横流しもあり闇市が発達、当時は中央線沿線で最も発展した闇市と称された。復興の過程で闇市は商店街へと姿を変え、1948年には「仲通り」は「中野北口美観商店会」に改称した。1958年にはアーケードを建設し、現在の中野駅前の繁華街の基礎を作った[20][22]

20世紀後半[編集]

1966年には営団地下鉄東西線が開業、中野駅は名実ともにターミナル駅となった。同年には中野ブロードウェイが開業、東洋一のショッピングセンターとして約400店が軒を連ねた。 一時は店舗の陳腐化や撤退のため200店前後にまで落ち込んだが、1980年にまんだらけが開業して同様の業者を呼び寄せ、サブカルチャーが脚光を浴びて同社の店舗数が増えるにつれ、おたく文化の発信拠点となった[25]

また、1970年には日本初の会員制総合スポーツクラブとして東京アスレチッククラブがこの地に開業、1973年には最高級のコンサートホールや結婚式場、ホテルを擁する中野サンプラザが竣工、さらには、1975年に中野北口美観商店街が中野サンモールになるなど、現在の街並みやランドマークがほぼ完成した。2012年には「中野四季の都市」が街開きするなど中野駅周辺で大規模な再開発事業が行われ、街並みが大きく変貌しつつある。

21世紀前半[編集]

2012年、東京都は中野二丁目及び五丁目を都迷惑防止条例に基づき、客引きスカウトのみならず、それらを行うために待機する行為なども禁止する区域に指定した[26]

さらに2019年には同区域を暴力団排除条例に基づき、暴力団排除特別強化地域に指定[27]。地域内では暴力団と飲食店等との間で、みかじめ料のやりとりや便宜供与などが禁止され、違反者は支払った側であっても懲役1年以下または罰金50万円以下の罰則が科されることとなった[28]

年表[編集]

町名の変遷[編集]

中野は1966年昭和41年)10月1日住居表示を実施。旧町名は町内会や公園の名前などに残るのみとなった。1~3丁目がJR中央線の高架より南側、4~6丁目が北側である。

中野(中野区)の各町丁の位置関係。上側が北。
実施後 実施年月日 実施前
中野一丁目 1966年(昭和41年)10月1日 宮園通一丁目から同三丁目の各一部、城山町
中野二丁目 宮園通三丁目および同四丁目の各一部、千光前町、中野駅前の一部
中野三丁目 宮園通四丁目および同五丁目の各一部、中野駅前の一部、桃園町
中野四丁目 囲町、新井町の一部、野方町二丁目の一部
中野五丁目 打越町、天神町、昭和通三丁目の一部、新井町の一部
中野六丁目 文園町、昭和通二丁目の一部

世帯数と人口[編集]

2017年(平成29年)12月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]

丁目 世帯数 人口
中野一丁目 3,711世帯 6,042人
中野二丁目 1,493世帯 2,539人
中野三丁目 3,937世帯 6,118人
中野四丁目 1,499世帯 2,008人
中野五丁目 4,491世帯 6,677人
中野六丁目 2,260世帯 3,727人
17,391世帯 27,111人

小・中学校の学区[編集]

区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[30]

丁目 番地 小学校 中学校
中野一丁目 全域 中野区立谷戸小学校 中野区立中野東中学校
中野二丁目 1〜17番 中野区立中野中学校
その他 中野区立桃花小学校
中野三丁目 全域
中野四丁目 全域 中野区立平和の森小学校
中野五丁目 全域 中野区立桃園第二小学校
中野六丁目 全域 中野区立中野東中学校

施設[編集]

一丁目[編集]

二丁目[編集]

三丁目[編集]

四丁目[編集]

五丁目[編集]

駅に近い西側は繁華街、東側は住宅街になっている。

六丁目[編集]

主に住宅地となっている。

交通[編集]

鉄道[編集]

町内の鉄道駅は中野駅のみであるが、東部では東中野駅中野坂上駅落合駅、北部では新井薬師前駅、南部では新中野駅も利用可能である。

道路[編集]

中野サンプラザ20階から見た中野駅と中野通り

バス[編集]

中野駅周辺の京王バス路線図
(2014年現在)

駅北口(ガード下・サンプラザ前)・南口双方に大規模なバスターミナルと、北口に関東バス案内所、南口に京王バス案内所がある。中野駅から区内各所・新宿池袋渋谷や近隣区を結ぶ一般路線バスのほか、銀座羽田空港と結ぶ中距離路線、長距離高速バスが乗り入れる。

中野を舞台とした作品[編集]

小説[編集]

映画・ドラマ・特撮[編集]

漫画・ライトノベル・アニメ[編集]

ゆかりのある人物[編集]

政治家・学者・文化人・軍人[編集]

  • 乃木希典 - 現在の中野ブロードウェイの敷地の一部は、乃木希典が自分の死後に妻生活に困らないように買っていた土地だったが、その後親族の手に渡った。親族はこの地が経済活動に利用され、乃木の痕跡が消されることを懸念し、当初はブロードウェイ建設に反対した。
  • 東畑精一
  • 松岡象一郎
  • 青島幸男 - 中野ブロードウェイに居住していた。
  • 渡辺浩弐 - 作家。中野ブロードウェイに居住していた。

芸能[編集]

  • 中川翔子 - 中野ブロードウェイ内に自身がプロデュースする「mmts」を開店。
  • 野村義男
  • 沢田研二 - 中野ブロードウェイに居住していた。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 現在の定義より東側を指すものと思われる。当地に所在する1917年開校の中野区立桃園第二小学校校歌歌詞に「武蔵野に朝日まず差す」とあることから、大正期には既に当地は武蔵野の東端であるという認識に移行していたことがうかがえる。

出典[編集]

  1. ^ 中野区統計書”. 中野区 (2017年4月6日). 2018年1月4日閲覧。
  2. ^ a b 世帯と人口”. 中野区 (2017年12月5日). 2018年1月4日閲覧。
  3. ^ a b 郵便番号”. 日本郵便. 2018年1月4日閲覧。
  4. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2018年1月4日閲覧。
  5. ^ 各駅の乗車人員、JR東日本、2016年1月8日閲覧(JRのみ。乗換客・降車客含まず)
  6. ^ 中野区――国の経済政策で人口過密地域となった「離合集散の街」 ダイヤモンド・オンライン、ダイヤモンド社、2010年9月7日
  7. ^ 五輪へ中野変身 サンプラザ解体、駅ビルも誕生 日本経済新聞、2014年6月27日
  8. ^ 都道府県地価調査 土地総合情報システム、国土交通省、2014年12月14日閲覧。
  9. ^ [1]、国土交通省、2016年1月9日閲覧
  10. ^ 土地総合情報システム 国土交通省、2016年1月9日閲覧。
  11. ^ 中野駅周辺の情報、出店戦略情報局、ダイヤモンド社、2016年1月9日閲覧
  12. ^ 中野駅周辺の情報 出店戦略情報局、ダイヤモンド社、2014年12月26日閲覧
  13. ^ 年間商品販売額から見た東京の商業集積地区 東京都統計局、2014年12月26日閲覧。
  14. ^ 中野駅再開発でオタクの聖地・中野は世界のナカノへSUUMOジャーナル、リクルート、2014年12月26日閲覧
  15. ^ 中野区商店街ナビ、中野区商店街連合会、2014年12月14日閲覧
  16. ^ カップルがいちばん住みたい街はどこ?検索「沿線」「駅」ランキング発表!、SUUMOジャーナル、リクルート、2014年12月14日閲覧
  17. ^ 三浦展『中央線がなかったら見えてくる東京の古層』p.64、NTT出版、2012年。
  18. ^ 三浦展『中央線がなかったら見えてくる東京の古層』p.66、NTT出版、2012年。
  19. ^ 三浦展『中央線がなかったら見えてくる東京の古層』p.58、NTT出版、2012年。
  20. ^ a b いつか見た中野駅(約22分) 中野区公式YouTubeチャンネル、2014年12月14日閲覧
  21. ^ 政策研究報告書 中野区の商店街の発展可能性に関する研究 p.101、中野区
  22. ^ a b 「大都市東京における下位文化の一形態」 ~中野ブロードウェイの過去から現在~早稲田大学、2015年1月3日閲覧
  23. ^ a b 政策研究報告書 中野区の商店街の発展可能性に関する研究 p.90 中野区
  24. ^ 社歴 丸井グループ、2014年12月27日閲覧
  25. ^ 政策研究報告書 中野区の商店街の発展可能性に関する研究 p.75 中野区
  26. ^ 客引き等の相手方となるべき者を待つ行為を規制する区域の指定について”. 警視庁ホームページ (2016年3月11日). 2022年8月30日閲覧。
  27. ^ 暴力団排除特別強化地域”. 警視庁 (2019年). 2022年8月30日閲覧。
  28. ^ 東京都暴力団排除条例”. 東京都ホームページ (2019年). 2022年8月30日閲覧。
  29. ^ 下川耿史 家庭総合研究会 編『明治・大正家庭史年表:1868→1925』河出書房新社、2000年、414頁。ISBN 4-309-22361-3 
  30. ^ 通学区域(学校別・住所別)”. 中野区 (2018年4月1日). 2018年4月15日閲覧。
  31. ^ 東京エリアにおける J:COM 子会社の吸収合併に関するお知らせ” (PDF). 株式会社ジュピターテレコム (2018年11月26日). 2018年11月29日閲覧。

参考文献[編集]

  • 三浦展『中央線がなかったら見えてくる東京の古層』p.64、NTT出版、2012年。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]