藤原朝忠

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藤原 朝忠
藤原朝忠(狩野安信『三十六歌仙額』)
時代 平安時代前期 - 中期
生誕 延喜10年(910年
死没 康保3年12月2日(967年1月15日
別名 土御門中納言、堤中納言
官位 従三位中納言
主君 醍醐天皇朱雀天皇村上天皇
氏族 藤原北家勧修寺流
父母 藤原定方藤原山蔭女・観子または親子
兄弟 佳節朝忠朝成朝頼理実代明親王室、藤原雅正室、能子醍醐天皇女御)、藤原兼輔室、平随時室、藤原尹文室、欣子更衣)、藤原師尹室、橘典輔室、源為善室、藤原庶正
藤原忠舒女、他
理兼源雅信室・穆子源重信
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藤原 朝忠(ふじわら の あさただ、延喜10年(910年) - 康保3年12月2日967年1月15日))は、平安時代中期の公家歌人藤原北家高藤流右大臣藤原定方の五男。官位従三位中納言土御門中納言または堤中納言と号する。小倉百人一首では中納言朝忠三十六歌仙の一人。

経歴[編集]

醍醐朝にて、左近衛将監東宮侍従春宮寛明親王)を経て、延長4年(926年従五位下叙爵し、翌延長5年(927年侍従に任ぜられる。

延長8年(930年朱雀天皇即位に伴い五位蔵人となる。朱雀朝では蔵人を務める傍ら、右兵衛佐左近衛権少将と武官を歴任し、承平6年(936年)従五位上、天慶4年(941年正五位下と昇進した。天慶6年(943年従四位下に叙せられて少将兼蔵人を辞し、内蔵頭に遷る。天慶9年(946年)には近江守に任ぜられて地方官に転じるが、同年11月には村上天皇即位大嘗会で悠紀方の和歌を詠んだ労により従四位上に昇叙されている。

天暦5年(951年)左近衛中将として京官に復し、翌天暦6年(952年参議に任ぜられ公卿に列す。議政官の傍らで、右衛門督・検非違使別当などを兼帯し、この間に天暦10年(956年正四位下応和元年(962年)造宮を賞されて従三位と昇進し、応和3年(963年中納言に至る。

康保2年(965年)10月頃より中風のために政務に就くことが困難となり、同年11月には右衛門督・検非違使別当の兼務を辞任。翌康保3年12月2日(967年1月)薨去享年58。最終官位は中納言従三位。

人物[編集]

歌人として『後撰和歌集』(4首)以下の勅撰和歌集に21首が入集[1]。家集に『朝忠集』がある。小倉百人一首の歌は『天徳内裏歌合』で六番中五勝した中の一首である。また、笛やにも秀でていた。

  • 小倉百人一首
    • 44番 逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし[2]

逸話[編集]

座るのも苦しいほどの肥満で、痩せるために水飯を食べるように医師に勧められたが、かえって太ったという逸話がある[3]。これは『古今著聞集』や『宇治拾遺物語』にある「三条中納言水飯事」が出典と思われるが、そこで語られる三条中納言は藤原朝成のことであり、朝忠が肥満体であったというのは『百人一首夕話』の作者の勘違いであると思われる。

官歴[編集]

公卿補任』による。

系譜[編集]

注記のないものは『尊卑分脈』による。

藤原穆子左大臣源雅信の正室となり、摂政藤原道長の正室となった源倫子を生んだ。つまり、関白藤原頼通は朝忠の曾孫、後一条後朱雀の両天皇は朝忠の玄孫(孫の孫)にあたることになる。

脚注[編集]

  1. ^ 『勅撰作者部類』
  2. ^ 拾遺和歌集』恋一678
  3. ^ 百人一首夕話
  4. ^ a b c 『近衛府補任』
  5. ^ 公卿補任

参考文献[編集]

軍職
先代
藤原師氏
右衛門督
958 - 965
次代
藤原朝成