中田浩二 (サッカー選手)
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|---|---|---|---|---|
| 名前 | ||||
| 愛称 | コウジ | |||
| カタカナ | ナカタ コウジ | |||
| ラテン文字 | NAKATA Koji | |||
| 基本情報 | ||||
| 国籍 | ||||
| 生年月日 | 1979年7月9日(32歳) | |||
| 出身地 | 滋賀県大津市 | |||
| 身長 | 182cm | |||
| 体重 | 74kg | |||
| 選手情報 | ||||
| 在籍チーム | 鹿島アントラーズ | |||
| ポジション | MF/DF | |||
| 背番号 | 6 | |||
| 利き足 | 左足 | |||
| 代表歴 | ||||
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中田 浩二(なかた こうじ、1979年7月9日 - )は、滋賀県大津市出身のサッカー選手。鹿島アントラーズ所属。ポジションはミッドフィールダー(ボランチ)、ディフェンダー(センターバック、左サイドバック)。元日本代表選手。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] プロ入り前
滋賀県志賀町(現大津市)出身。小学校低学年のころは父親の転勤の関係で転校を繰り返しており、サッカーを始めたのは神奈川県横浜市の南戸塚小学校2年の時である。小学校3年の時、鳥取県米子市の義方小学校に転校し、そこで本格的にサッカーを始めるようになる。小学校5年の時、全日本少年大会に出場する。米子市の後藤ヶ丘中学校に進学し、中学3年の時に全国中学校大会に出場する。2年の時に中国選抜として選抜中国大会に出場する。中学校までのポジションはFWで、左足の怪物として地元紙にも取り上げられるほどの存在となる。
帝京高校進学後はBチームに入れられるなど決して順調ではなかったものの、ボランチに転向し、頭角を現す。3年生のときにキャプテンとして全国高校サッカー選手権に出場し、決勝では後に鹿島アントラーズでチームメイトとなる本山雅志擁する東福岡高校に敗れるものの、準優勝を収める。この試合は雪深い国立競技場で行われ、試合中に転倒する選手が続出した。また試合球として、白い雪の中でも目立つオレンジ色のボールが採用されるなど、後々まで語り継がれる試合となった。
[編集] クラブ
[編集] 鹿島アントラーズ(1998-2004年)
1998年、Jリーグの鹿島アントラーズに入団(同期は小笠原満男、本山雅志、曽ヶ端準、山口武士、中村祥朗)。同い年の小笠原満男、本山雅志とともに中盤を担い、MFとしてチームに多くの栄冠をもたらした。鹿島ではリーグ優勝2回、天皇杯優勝1回、ナビスコカップ優勝1回を経験している。2003年8月の大分トリニータ戦で左ひざ靭帯断裂の大ケガを負い、長期戦線離脱を余儀なくされた。2004年5月、柏レイソル戦で259日ぶりの試合復帰を果たした。
[編集] オリンピック・マルセイユ(2005年)
2005年1月、元日本代表監督のフィリップ・トルシエが監督をしているフランス1部リーグのオリンピック・マルセイユの練習に参加する。マルセイユ側は中田の獲得を打診するが、提示された移籍金が低額だったため、鹿島側は中田の移籍を認めなかった。同時期、中田との契約切れが迫っていた鹿島は来季以降の契約更新を申し出るが、中田本人が海外移籍を希望していたため断り続ける。その後、契約切れとなりフリーの立場で同年1月26日にマルセイユに移籍した[注 1]。所属クラブの意向を無視した移籍ゆえに円満移籍とはならなかった。
移籍当初はそこそこ出場機会はあったが、不慣れな左サイドバック、ライバルチームであるPSG戦でのオウンゴール、トルシエ監督の解任により出場機会が激減。守備的MFだけでなくDFもこなせるため出場が期待されたが、イスラエルのクラブからの数億単位の移籍話を蹴ったことでフロントとの関係が悪化、その結果、事実上戦力外にされてしまう。
[編集] FCバーゼル(2006-2008年)
2006年、出場機会を求めてクラブに移籍を申し出る。古巣の鹿島にも打診したが、「移籍金0円なら獲得する」という回答だった。イスラエル、ウクライナのクラブからオファーが届くもいずれも断り、スイスリーグの名門FCバーゼルの練習に参加し、その後正式契約を結んだ。
2006-07シーズンは、海外のクラブに所属している日本人選手としては珍しく、センターバックとしてレギュラーに定着した。10月のザンクト・ガレン戦で鼻を骨折して途中交代するまでは、19試合連続でフル出場していた。中田の加入以降、バーゼルは2005-06、2006-07シーズンと2シーズン連続で勝ち点1差で優勝を逃すが、2007年5月にはスイスカップに優勝。バーゼルでの初タイトルを獲得した。
2007年6月に代表戦に出るために帰国した際に、人気女優加藤あいと超遠距離恋愛をしていた事が発覚する(2008年7月に加藤と破局と報道される)。
その前後、古巣・鹿島が優勝を目指す為に中田にオファー。中田自身は鹿島が必要としているなら復帰する意思があると伝えたが、鹿島の提示金1億円に対して「中田は必要な選手」とするバーゼルの提示金3億円(ともに推定)では大きな開きがあり、このときは移籍断念となった。
翌2007-08シーズン、バーゼルは悲願のリーグ優勝を果たし、スイスカップも連覇して二冠を獲得。中田も負傷離脱した時期を除き不動のレギュラーとして活躍したが、この頃にはバーゼルの慰留にもかかわらず、中田の鹿島復帰の意思は公然とマスコミに取り上げられるようになった。2008年4月、スイスリーグの終了を待たずして、バーゼルとの契約終了後に鹿島へ移籍することが正式発表された。同年7月より、およそ3年半ぶりにJリーグでプレーすることになった。
[編集] 鹿島アントラーズ(2008年)
鹿島復帰後はユーティリティー性を買われ、ボランチ、左サイドバック、センターバックと主に3つのポジションでプレー。しかし膝の怪我の影響か全盛期の身体のキレは全く見られず、1対1で簡単に振り切られる場面が多々見られた。10月に膝の再手術に踏み切ったことにより残りシーズンを全休。チームは連覇を達成したものの、中田本人にとっては公式戦わずか12試合の出場に留まり、不本意なシーズンとなってしまった。 2009シーズン当初は青木剛にポジションを譲り、控えに甘んじていたが、チームが失速した夏場以降、出場機会が増えた。
2011年シーズン当初は増田誓志の復帰、本田拓也、柴崎岳の加入でボランチの層が厚くなり、大岩剛の引退で層が薄くなったセンターバックで伊野波雅彦と併用にされていたが、しだいにセンターバックのレギュラーに定着、その後、伊野波は移籍をした。
[編集] 日本代表
[編集] トルシエ監督時代
1999年のワールドユースの大会直前に、レギュラーDFと目されていた鹿島のチームメイト金古聖司が負傷し、当時の監督フィリップ・トルシエによってDFにコンバートされた。中田はこの大会で全試合に左センターバックとして出場し、日本は準優勝した。
オリンピック代表でもレギュラーに定着し、2000年にシドニーオリンピックに出場。グループリーグ3戦目のブラジル戦でルーカスによって負傷させられ、その後の試合には出場できなかった。
A代表でのデビュー戦は2000年2月5日のメキシコ戦。2002年FIFA日韓ワールドカップで4試合すべてにフル出場、日本のベスト16に貢献したが、ベスト16のトルコ戦ではクリアミスでCKを献上、そのCKで失点し敗退の要因を作るという不運さもあった。
バランス感覚と正確なロングフィード、時にはサイドバックのようなオーバーラップで、トルシエの提唱するフラット3の左のDFというポジションをつかみ、トルシエ監督下、最もコンスタントに試合に出場した選手の一人である。
[編集] ジーコ監督時代
ジーコが日本代表監督に就任すると、本来のボランチとして出場するようになった。トルシエ時代より出場機会は減ったが、主要大会のメンバーには毎回選出された。
2004年7月アジアカップ準々決勝ヨルダン戦では、外すと負けというピンチからPK戦4人目としてシュートを成功させる。準決勝、決勝と2試合連続でゴールを挙げて、日本は大会を2連覇した。2006年ワールドカップ・ドイツ大会では、3戦目のブラジル戦に途中出場した。
[編集] オシム監督時代
2006年ワールドカップ後に就任したイビチャ・オシム監督のもとでは、欧州のクラブに属している選手がコンディションを崩さないようにという配慮の為、しばらく日本代表への招集は見送られているものの、代表収集の条件となる“所属クラブでのレギュラー定着゛を果たしている事や、オシム監督が選手に求める“ポリバレント”な能力を持ち合わせている為、日本代表への復帰の可能性も高いと見られていた。2007年6月のキリンカップでオシムジャパン発足後初選出された。
[編集] エピソード
- 2000年のチャンピオンシップ、対横浜F・マリノスにて、3点目のゴールを決めている。左サイドのタッチライン際、外に出そうなボールをギリギリの所で拾い、そのままゴール方向へフワリと蹴り上げた。それを、やや前に出ていたGK川口能活が後ろへ下がりながらキャッチングしようとしたが失敗し、ボールはゴールへ吸い込まれる。試合後、インタビュアーからの「あれは狙っていたんですか?」という問いかけに対し、「いえ、センタリングです」と答え、センタリングミスであった事を素直に告白。国立競技場が笑いに包まれた。
- 2002年FIFA日韓ワールドカップの合宿中の宴会の席で、フィリップ・トルシエと中田英寿をプールに落っことし、ムードメイクに一役買った。
- そのルックスから、2003年に水泳のイアン・ソープ、サッカーのアレッサンドロ・デルピエロ(ユヴェントス)、デビッド・ベッカム(当時マンチェスター・ユナイテッド)、女子テニスのアンナ・クルニコワ(ロシア)とともに、adidas社によって“世界イケメン5傑”に選出されている。
- 人柄の良さから交友関係は広く、芸能界においてもファンや友人は多い。
- 2006年ドイツW杯終了後しばらく、髪型をスキンヘッド(本人曰くチームメイトにノリで刈られたらしい)にしていた。
- 幼少のころからの阪神タイガースファンであり、江草仁貴など選手とも親交がある。
[編集] 所属クラブ
- 1992年 - 1995年
米子市立後藤ヶ丘中学校 - 1995年 - 1998年
帝京高等学校 - 1998年 - 2004年
鹿島アントラーズ - 2005年 - 2006年
オリンピック・マルセイユ - 2006年 - 2008年
FCバーゼル - 2008年 -
鹿島アントラーズ
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1998 | 鹿島 | 26 | J | 5 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 1 |
| 1999 | J1 | 17 | 4 | 1 | 0 | 2 | 0 | 20 | 4 | ||
| 2000 | 5 | 29 | 4 | 2 | 2 | 5 | 2 | 36 | 8 | ||
| 2001 | 25 | 8 | 6 | 0 | 3 | 1 | 34 | 9 | |||
| 2002 | 29 | 6 | 3 | 0 | 5 | 0 | 37 | 6 | |||
| 2003 | 18 | 3 | 2 | 2 | 0 | 0 | 20 | 5 | |||
| 2004 | 21 | 1 | 2 | 0 | 3 | 2 | 26 | 3 | |||
| フランス | リーグ戦 | リーグ杯 | フランス杯 | 期間通算 | |||||||
| 2004-05 | マルセイユ | 27 | リーグ・アン | 5 | 0 | - | - | 5 | 0 | ||
| 2005-06 | 4 | 0 | 1 | 0 | - | 5 | 0 | ||||
| スイス | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 2005-06 | バーゼル | 6 | スイスリーグ | 10 | 1 | - | - | 10 | 1 | ||
| 2006-07 | 34 | 1 | 5 | 0 | - | 39 | 1 | ||||
| 2007-08 | 18 | 1 | 2 | 1 | - | 20 | 2 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 2008 | 鹿島 | 6 | J1 | 9 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 10 | 0 |
| 2009 | 22 | 1 | 1 | 0 | 4 | 0 | 27 | 1 | |||
| 2010 | 32 | 3 | 1 | 0 | 6 | 1 | 39 | 4 | |||
| 2011 | 26 | 2 | 3 | 0 | 1 | 0 | 30 | 2 | |||
| 2012 | |||||||||||
| 通算 | 日本 | J1 | 233 | 33 | 22 | 4 | 29 | 6 | 284 | 43 | |
| フランス | リーグ・アン | 9 | 0 | 1 | 0 | - | 10 | 0 | |||
| スイス | スイスリーグ | 62 | 3 | 7 | 1 | - | 69 | 4 | |||
| 総通算 | 304 | 36 | 30 | 5 | 29 | 6 | 363 | 47 | |||
その他の公式戦
- 2000年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合1得点
- 2001年
- スーパーカップ 1試合0得点
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 2002年
- スーパーカップ 1試合0得点
- 2010年
- スーパーカップ 1試合0得点
| 国際大会個人成績 | ||||
|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 |
| AFC | ACL | |||
| 2002-03 | 鹿島 | 5 | 3 | 0 |
| UEFA | UEFA EL | |||
| 2005-06 | マルセイユ | 27 | 3 | 0 |
| 2006-07 | バーゼル | 6 | 5 | 0 |
| 2007-08 | 3 | 0 | ||
| AFC | ACL | |||
| 2008 | 鹿島 | 5 | 2 | 0 |
| 2009 | 6 | 2 | 0 | |
| 2010 | 6 | 2 | ||
| 2011 | 6 | 1 | ||
| 通算 | AFC | 19 | 3 | |
| UEFA | 11 | 0 | ||
その他の国際公式戦
-
- アジアクラブ選手権 - 7試合1得点
- アジアカップウィナーズ選手権 - 1試合0得点
- A3チャンピオンズカップ - 3試合0得点
- 2005年
- UEFAインタートトカップ - 2試合0得点
- 2007年
- UEFAカップ予備予選2回戦 - 2試合0得点
[編集] タイトル
[編集] チームタイトル
鹿島アントラーズ
- Jリーグ:5 (1998,2000,2001,2008,2009)
- Jリーグ2ndステージ:3 (1998,2000,2001)
- Jリーグカップ:3 (2000,2002,2011)
- 天皇杯全日本サッカー選手権大会:2 (2000,2010)
- FUJI XEROX SUPER CUP:4 (1998,1999,2009,2010)
- A3チャンピオンズカップ:1 (2003)
マルセイユ
- インタートトカップ (2005)
FCバーゼル
- スイス・スーパーリーグ:1 (2007-08)
- スイス・カップ:2 (2007,2008)
日本代表
- アジアカップ中国大会 (2004)
[編集] 個人タイトル
- JリーグカップMVP:1 (2000)
- Jリーグベストイレブン:1 (2001)
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
- U-19、U-20日本代表
- 1998年AFCユース選手権 タイ大会
- 1999年FIFAワールドユース ナイジェリア大会(7試合0得点、準優勝)
- U-22、U-23日本代表
- 2000年シドニーオリンピック(3試合0得点、ベスト8)
- 日本代表
- 2001年FIFAコンフェデレーションズカップ 韓国・日本大会(5試合0得点、準優勝)
- 2002年FIFAワールドカップ 韓国・日本大会(4試合0得点、ベスト16)
- 2003年FIFAコンフェデレーションズカップ フランス大会(2試合0得点、グループリーグ敗退)
- 2004年AFCアジアカップ 中国大会(4試合2得点、優勝)
- 2005年FIFAコンフェデレーションズカップ ドイツ大会(2試合0得点、グループリーグ敗退)
- 2006年FIFAワールドカップ ドイツ大会(1試合0得点、グループリーグ敗退)
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 57試合 2得点(2000-)
| 日本代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 2000 | 7 | 0 |
| 2001 | 13 | 0 |
| 2002 | 13 | 0 |
| 2003 | 7 | 0 |
| 2004 | 6 | 2 |
| 2005 | 8 | 0 |
| 2006 | 2 | 0 |
| 2007 | 1 | 0 |
| 通算 | 57 | 2 |
[編集] ゴール
| # | 開催年月日 | 開催地 | 対戦国 | 勝敗 | 試合概要 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1. | 2004年8月3日 | 中国、済南 | ○ 4-3 | AFCアジアカップ2004 | |
| 2. | 2004年8月7日 | 中国、北京 | ○ 3-1 |
[編集] 脚注
- 注釈
- 出典
- ^ 小澤一郎 『サッカー選手の正しい売り方 移籍ビジネスで儲ける欧州のクラブ、儲けられない日本のクラブ』 カンゼン、2012年、23-24頁。ISBN 4862551033。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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