中沢啓治
| 中沢 啓治 | |
|---|---|
| 本名 | 同じ |
| 生誕 | 1939年3月14日(72歳) 広島県広島市中区 |
| 国籍 | |
| 職業 | 漫画家 |
| 活動期間 | 1963年 - 2009年 |
| ジャンル | 戦争・原爆・平和漫画 |
| 代表作 | はだしのゲン |
| 受賞 | 第14回谷本清平和賞(2002年) |
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中沢 啓治(なかざわ けいじ、本名同じ。1939年3月14日 - )は、日本の漫画家。広島県広島市舟入本町(現在の広島市中区舟入本町)出身。現在は埼玉県所沢市に在住。
代表作『はだしのゲン』等、広島市への原子爆弾投下による自身の被爆体験を元に、戦争・平和を題材とした作品を数多く発表している。2011年8月、自身の生い立ちを語ったドキュメンタリー映画『はだしのゲンが見たヒロシマ』が公開される。
目次 |
[編集] 生い立ち
1945年8月6日、広島市立神崎国民学校(現在の広島市立神崎小学校)1年生だった時に広島で被爆。友達の母親に呼び止められて自身は建物の塀の影に入って熱線を浴びずに奇跡的に助かるが、父、姉、弟を失った。これは『はだしのゲン』の原爆投下時のエピソードとほぼ同じである。父は日本画家だった。
長田新が被爆児童の手記を集めて1951年に刊行した『原爆の子』の「序」に中沢の手記の一部が引用される形で掲載されている。
終戦後、手塚治虫の『新宝島』を読んで感動し、漫画家になる事を決意。
中学卒業後に看板屋で勤め、そこで当時の中卒最高額の給料を貰った。昼間は看板修行、夜は漫画修行、日曜の休みに三本立ての映画を見たと言う。その後、漫画の投稿を何度も行い、『おもしろブック』に時代劇の読みきりを描いて応募した作品が入選作となった。
1961年に一峰大二のアシスタントになるために上京し、山手線日暮里駅のそばのアパートに住んだ。漫画家デビューは2年後の1963年とされるが、自伝「おれは見た」では半年後という事になっており、どちらが正しいかは不明。レースカーと産業スパイをからめた『スパーク1』(『少年画報』)でデビューしたが、打ち切られた。一からやり直すために、辻なおきのアシスタントになり、『週刊少年キング』では『宇宙ジラフ』を三ヶ月連載し、締め切りに追い込まれプロの厳しさが分かったと言う。
上京当初は周囲の原爆被爆者に対する差別の視線から、もう二度と原爆と言う言葉を口にすまいと決心し、自らが被爆した過去を語りたがらず、専ら少年向け漫画誌に原爆とは無縁の漫画を描いていた。転機となったのは1966年の母の死で、広島に戻り火葬した際に放射能のために母の骨がなかった事に怒り、原爆という言葉から逃げ回るのでなく、漫画の世界で戦うと決意した。初めて原爆を題材とした漫画『黒い雨にうたれて』を描き始めるが、最初はどこの出版社からも掲載を断られた。『漫画パンチ』のH編集長には感動されたものの「CIAに捕まるかも知れない」と言われたが、「喜んで捕まりますよ!」と答え、描き上げてから2年の時を経てようやく掲載された。『黒い雨にうたれて』は好評となり、『黒い川の流れに』『黒い沈黙の果てに』『黒い鳩の群れに』といった作品も描いた。
『はだしのゲン』は、33歳の時、出版社の企画で描いた自伝の漫画『おれは見た』に感動した編集長に長期連載を勧められ始まったもので、広島の原爆で父、姉、弟を喪った主人公の少年、中岡元(なかおか げん)が逞しく生きる姿を描いている。主人公・元の姉と妹の名前は中沢自身の姉と妹の名前をそのまま使用しているなど自伝的要素が強い。
2001年頃から患っていた糖尿病による、左目の網膜症と右目の白内障で視力が低下したため、執筆活動から遠ざかっていた。後に白内障の手術を行なうも視力が回復せず、2009年9月14日に正式に漫画家引退を表明した。
『はだしのゲン 第二部 東京編』はネームまたは原作のみの段階で構想を練っていたという。だが、引退表明に伴い制作を断念。「ゲンのその後は読者自身が考えてほしい」と語っている。同年12月8日、中沢は手元に残っていないデビュー作『スパーク1』を除く所有するすべての漫画の原画などを広島平和記念資料館に寄贈すると発表した。その中には幻となった『はだしのゲン』第二部の原画も含まれている[1]。
2011年現在は原爆漫画の第一作「黒い雨に打たれて」の映像化を準備中。
[編集] 人物・思想
被爆者でありながら悲惨な被爆体験のため2010年まで平和記念式典に出た事はなかった。「原爆に触れるのが嫌だった。(慰霊の日)8時15分が迫ると気分が重い。逃げ回った姿が蘇る」[2]と述べている。2010年に肺がんで生死をさまよった事を契機に、2011年、初めて出席した。また、前日にマツダスタジアムで「ピースナイター」として開催されたカープ対ジャイアンツ戦では始球式を務めている[3]。中沢は「カープのグラウンドで始球式できるとは夢にも思わなかった。こういうときに野球をやると不謹慎と言われるけど、平和だからできることを喜ばないと」と語っている[4]。
中沢の漫画は妻に手伝ってもらう他には一人で描いている。これは中沢がアシスタントを雇って作業する方法を嫌っており、自分一人で描くというポリシーを持っているためである。そういった中沢のこだわりもあり、違う職業の人としか顔を合わせないこともある。理由は、原爆漫画家と同業者からレッテルを貼られていることが不快で、自分の顔を見られることが嫌だからと語っていた。
最高戦争責任者だった昭和天皇の戦争責任を主張しているため、戦後も国家元首だった昭和天皇を激しく嫌い、その憎悪から天皇制を絶対に許せない物として強固に廃止する事を求めており[5]、天皇に対する怒りは一切の妥協を許さない程厳しく、広島に行幸した天皇を『人間の神経をもたない冷血人間』と評している。「天皇や軍部はポツダム宣言を無視し、その結果、広島・長崎で多くの人が亡くなった。なのに戦後、天皇が広島に来た時には日の丸を振るように学校で言われた。なぜ万歳なのか。今でも腹の中が煮えくり返る思いがある。日本人は甘いと思う。」と述べ[6]、さらに「天皇ヒロヒトと皇族を助けるために広島と長崎は犠牲にされたのだ。」と過激な発言を述べている[7]。また日本の戦争責任者の昭和天皇が生き延びた事がイタリアの戦争責任者のベニート・ムッソリーニが逆さ吊りにされてイタリア国民に石を投げつけられる末路と正反対である事を比較している[8]。しかし中沢は作中で天皇制批判を描いても嫌がらせがなく拍子に抜けたと言い、自伝や週刊誌や新聞で天皇制批判を載せている。『はだしのゲンへの手紙』では読者に「天皇は憎いですか?」という質問に対し、「天皇の名によってアジアで2000万人、日本では300万人も殺された、私は天皇が憎い」と返答しており、一方、昭和天皇が1975年の日本記者クラブで「戦争中の事だからやむを得ない」と失言した事に対しては「被爆者に対して土下座して謝って欲しかった」と述べている[9]。
原爆投下の当事者のアメリカに対し怒りを持っており、原爆投下をしたアメリカにはナチスドイツのホロコーストを批判する資格はないと述べている。アメリカの原爆投下について『黒い雨にうたれて』では「勝てば官軍、負ければ賊軍、でも勝手すぎる」『はだしのゲン』では「喧嘩両成敗」と主張している。ただし、アメリカの国力もしくは文化には敬意を示しており、ウォルト・ディズニーの白雪姫が戦前のカラー映画である事に気が付き舌を巻いたと言う。アメリカの児童やオバマ大統領とその子女に英語版『はだしのゲン』を読んで欲しいと述べている。
日朝関係に対しては、日本統治時代の植民地支配を批判し、朝鮮に対し贖罪意識を持っており、朝鮮語版『はだしのゲン』を北朝鮮に持ち込みたいと述べている[10]。
日中関係に対しては平和交流を期待しており、「日本人が被害者ぶるのではなく他の国で何をしたのかも知っておく必要がある。南京虐殺の資料が出てくると、なんと日本人が酷い事をしたのかというのが出てくる。申し訳ない気持ちでいっぱいになります。」と述べている[11]。
また、原爆を題材にした漫画の他、『グズ六行進曲』『お好み八ちゃん』など、主人公が一人前の職人や調理師等を目指して努力する「仕事シリーズ」や、「大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス」等の怪獣映画のコミカライズも多数手掛けている。
[編集] その他の作品
[編集] 漫画
[編集] 原爆・戦争関係
- おれは見た - 『はだしのゲン』の原型となった中沢啓治の自伝漫画。元々は『月刊少年ジャンプ』連載陣の「漫画家になった切っ掛け」を描いたもので、中沢は最初に描いている。他に、ちばあきおなども執筆している。
- むらさき色のピカ - 被爆者女性教員が紫色を嫌う理由が描かれている。
- 永遠のアンカー
- 出発の歌
- 拍子木の歌
- いつか見た青い空
- 黒い雨にうたれて
- 黒い河の流れに
- 黒い鳩の群れに
- オキナワ
- ある日突然に
- 何かが起きる
- 赤とんぼの歌
- ゲキの河 - 戦前の広島市が舞台の作品。
- チンチン電車の詩
- ユーカリの木の下で
- あの街この街
- いいタマ一本
- クロがいた夏 - 絵本。1990年にアニメ化されている。
[編集] その他
- スパーク1 - デビュー作。
- チエと段平
- 拝啓青空さん
- あさがお日記
- おーい花ちゃん
- 大五郎の恋
- ドスコイ平六
- 三ちゃん出番だよ
- ある恋の物語
- おはよう
- 野球バカ
- グズ六行進曲
- 燃えろグズ六 - グズ六行進曲とは別の物語である。
- げんこつ岩太 - ギャグが中心となった作品で、彼の作品としては異色作である。
- 広島カープ誕生物語 - 後に大幅に脚色がなされ、広島東洋カープの結成を描いたアニメ映画『かっ飛ばせ!ドリーマーズ』の原案となった。
- 悪太郎
- 地蔵の松
- タイ焼き音頭
- お好み八ちゃん - 1999年には、中沢自身による製作・脚本・監督で実写映画化された。
- 男なら勝利の歌を
- カレーバカ
- われら永遠に
- 宝島
- 進め!!ドンガンデン
- 冒険児ジム - 1970年9月1日〜11月21日に高知新聞に月〜土で、1971年から福井新聞に毎日連載[12]。
- 怪獣島の決戦 ゴジラの息子 - ゴジラVSメカゴジラ決戦史、竹書房、1993年、ISBN 978-4884756895 に収録。
- ウルトラセブン「ボーグ星人の巻」 - ウルトラセブン、講談社テレビコミックス、第5集、1968年4月20日発行に収録。
- 大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス
ほか多数
[編集] 絵本
- 絵本はだしのゲン 作・絵 中沢啓治 - ISBN 4811300505
[編集] 手記
- はだしのゲン自伝 - ISBN 4876522634
- はだしのゲンはピカドンを忘れない - ISBN 400004947X
- はだしのゲンはヒロシマを忘れない - ISBN 4000094351
[編集] TV出演
- 徹子の部屋(テレビ朝日、1999年8月6日)
- スーパーモーニング(テレビ朝日、2010年8月10日)
- BS世界のドキュメンタリー「“マンガ”戦場を行く」(Comic Books Go to War)(イタリア、2009年制作、NHK BS1、2010年8月14日)
- INsideOUT「戦後66年『はだしのゲン』が語る被爆」(BS11、2011年8月9日)
[編集] 映画
- 「はだしのゲンが見たヒロシマ」(2011年 ドキュメンタリー映画 主演・本人)
[編集] 脚注
- ^ 2009年12月9日 中国新聞
- ^ “【ワイドショー通信簿】『はだしのゲン』中沢啓治「きれいごとじゃなくもっと怒らなくちゃいけない!」”. J-CASTテレビウォッチ (2010年8月10日). 2011年8月6日閲覧。
- ^ 白球に平和への思い、はだしのゲン作者が始球式サンケイスポーツ2011年8月5日配信
- ^ [http://hochi.yomiuri.co.jp/osaka/baseball/npb/news/20110806-OHO1T00045.htm はだしのゲン作者・中沢啓治さんが始球式…広島・巨人戦 ] おおさか報知2011年8月5日配信
- ^ 天皇制'
- ^ きょうされん:広島で全国大会 「障害者と被爆者の連帯を」/広島10月6日12時2分配信 毎日新聞
- ^ 中沢啓治「原爆投下はヒロヒトの責任」(週刊金曜日 1995.8.4号)
- ^ はだしのゲンの作中・「原爆と原発―怒りの表現者たち」(週刊金曜日 2011.8.5号)
- ^ 同様に被爆者で詩人の栗原貞子は、原爆投下の責任者として昭和天皇に怨念を抱いている
- ^ 『SHUEISHA JUMP REMIX はだしのゲン 非国民じゃないぞ編』
- ^ 中沢啓治さん・児童漫画家 中国国際放送局
- ^ 新聞マンガ研究所データベースより
[編集] 関連項目
- 長野規 - 週刊少年ジャンプ元編集長。『はだしのゲン』連載と枠の維持に尽力した。
- 広島県出身の人物一覧
- 広島原爆をテーマとした作品
