中村豊 (野球)

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中村 豊
中日ドラゴンズ 二軍外野守備走塁コーチ #87
阪神二軍守備走塁コーチ時代
(2015年3月22日、阪神鳴尾浜球場にて)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府堺市中区
生年月日 (1973-04-23) 1973年4月23日(50歳)
身長
体重
173 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1995年 ドラフト1位(逆指名)
初出場 1996年3月31日
最終出場 2007年10月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

中村 豊(なかむら ゆたか、1973年4月23日 - )は、大阪府堺市中区出身の元プロ野球選手外野手)、コーチ。右投右打。愛称は「」。

来歴・人物[編集]

プロ入り前[編集]

「豊」という名前が福本豊と同じということがきっかけで野球を始める。堺市立深井中学校から上宮高校へ進学、1年夏は元木大介らと甲子園にも出場した。2年夏は府大会決勝で中村紀洋がエースの渋谷高に敗れた[1]。上宮高で同級生であった薮田安彦は、当時中村宅に居候していた。高校では市原圭も同期だった。

明治大学では2年からレギュラーとなり首位打者・本塁打王・打点王を各1回獲得。リーグ通算81試合に出場し327打数116安打(当時歴代6位[1])、ベストナインに5回選出された。4年秋には6本塁打で当時シーズン最多タイ記録[1]。後に1年間だけ同僚となる野村克則は大学の同期生。

1995年のドラフト1位で日本ハムファイターズに入団。

日本ハム時代[編集]

1996年3月31日のオリックス・ブルーウェーブ戦で初出場を果たした。プロ初本塁打は千葉ロッテマリーンズ仲田幸司から放った。同年はわずか28試合の出場ながら打率.298、3本塁打を記録した。

1997年から1999年は15試合前後にしか出場できなかった。

2000年は控えでの出場が多かったものの103試合に出場し、打率.250の成績を残した。この間、1998年にはフレッシュオールスターに出場し、5打数3安打・1打点を挙げて優秀選手に選ばれた[2]

2001年は前年を上回る120試合に出場し、規定打席不足だったが打率.268、3本塁打を記録した。

2002年は81試合に出場し、二塁打を9本記録したが打率1割台と確実性を欠いた。オフに山田勝彦伊達昌司との交換トレードで、下柳剛と共に阪神タイガースへ移籍した[注 1]

阪神時代[編集]

2005年

2003年は主に守備固めとして数多く起用され、55試合に出場し、打撃面でも打率.250を記録した。この年はリーグ優勝に貢献した。

2004年にはわずか3試合の出場にとどまり、オフには二軍コーチ就任の打診を受けたが、これを断り現役続行を決断した。

2005年は優勝争いの真っ只中の9月7日の対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)で9回表に代走で出場し本塁に生還したと思われたが球審の橘高淳はアウトを宣告。中村と当時の監督の岡田彰布は猛抗議したが判定は覆らず、その裏にアレックス・オチョア矢野輝弘のクロスプレーがセーフと判定され、岡田監督が激怒し一時は選手全員がベンチに引き揚げたが判定は覆らず試合は延長戦に突入した(この時、橘高に掴みかかったヘッドコーチの平田勝男は退場処分になっている。)。中村はそのまま右翼の守備に就き9回裏に赤星憲広の落球をすかさずバックアップしサヨナラ負けを防ぎ、11回表に平井正史から3年ぶりとなる決勝本塁打を放った。この本塁打が阪神での唯一の本塁打である。同年も守備固めでの出場が多く49試合に出場し、30打数13安打で打率.433と打撃でも貢献し、2年ぶりのリーグ優勝に貢献した。

2006年も引き続き守備固めとして50試合に出場した。打席数は少なかったが11打数3安打で打率.273を記録した。

2007年は開幕一軍スタートだったが、赤松真人の台頭や投手陣の関係で程なく抹消。6月に右の手術を行なったこともあり、シーズンの大半を二軍で過ごした。結果的に3試合の出場に終わり、打席に立つことはなかった。シーズン終了後に球団から再び二軍コーチへの就任を打診され、現役続行へのこだわりもあったが最終的にはこれを受諾。10月24日付で任意引退が公示された。

引退後[編集]

2008年から二軍守備走塁コーチに就任した。

2009年は、一軍打撃コーチに移動。

2010年からは再び二軍守備走塁コーチとなった。

2016年からは一軍外野守備走塁コーチとなった。攻撃時は一塁ベースコーチを務めていた。

2018年シーズン途中から金本知憲監督の方針でベンチ専従となった。

2019年からは二軍守備走塁コーチに配置転換[4]

2020年からは二軍外野守備走塁コーチ[5]

2021年に退団した[6]

2021年11月4日に中日ドラゴンズの二軍外野守備走塁コーチに就任することが発表された[7]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1996 日本ハム 28 50 47 7 14 0 0 3 23 7 0 0 1 0 2 0 0 9 0 .298 .327 .489 .816
1997 19 26 23 1 3 0 0 0 3 1 0 0 2 0 1 0 0 4 0 .130 .167 .130 .297
1998 12 15 13 1 1 1 0 0 2 1 0 0 1 0 1 0 0 3 0 .077 .143 .154 .297
1999 13 19 17 1 3 1 0 0 4 4 0 0 0 1 1 0 0 4 1 .176 .211 .235 .446
2000 103 153 128 17 32 8 0 0 40 8 5 2 7 0 18 0 0 22 4 .250 .342 .313 .655
2001 120 294 257 34 69 13 1 3 93 25 4 5 6 2 29 0 0 34 4 .268 .340 .362 .702
2002 81 133 116 7 22 9 0 1 34 5 1 0 8 1 7 0 1 24 2 .190 .240 .293 .533
2003 阪神 55 68 64 5 16 4 1 0 22 7 2 1 0 0 3 0 1 13 1 .250 .294 .344 .638
2004 3 3 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
2005 49 31 30 10 13 0 0 1 16 4 0 1 0 0 1 0 0 3 1 .433 .452 .533 .985
2006 50 13 11 3 3 0 0 0 3 1 0 0 1 0 1 0 0 1 0 .273 .333 .273 .606
2007 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
通算:12年 536 805 709 86 176 36 2 8 240 63 12 9 26 4 64 0 2 118 13 .248 .311 .339 .649

記録[編集]

初記録

背番号[編集]

  • 7(1996年 - 2002年)
  • 0(2003年 - 2007年)
  • 87(2008年 - )

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 同時期に発表された坪井智哉野口寿浩のトレードとは別件と長らく語られていたが、下柳は、2020年に片岡篤史のYouTubeチャンネルにて、本来このトレードは野口と坪井も含めた3対3で発表される予定だったが、下柳本人が年俸のダウン金額等の不満から球団と揉めたことにより発表のタイムラグが出たと語った[3]

出典[編集]

  1. ^ a b c 96スポニチプロ野球手帳
  2. ^ 野球・イースタン情報: 胴上げへ準備万端”. 日刊スポーツ (1998年7月31日). 2001年1月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月17日閲覧。
  3. ^ 阪神タイガースは衝撃の連続!?「今のままでは勝たれへんなぁ〜」下柳剛さんが語るセ・リーグで勝てる投手になる秘訣とは!? - 片岡篤史チャンネル
  4. ^ 2019年度 監督・コーチについて”. 阪神タイガース公式サイト (2018年10月22日). 2021年6月18日閲覧。
  5. ^ 2020年度 監督・コーチについて”. 阪神タイガース公式サイト (2019年11月19日). 2021年6月18日閲覧。
  6. ^ コーチの退団について - 阪神タイガース公式サイト(2021年11月3日)
  7. ^ 来季コーチングスタッフのお知らせ - 中日ドラゴンズ公式サイト(2021年11月4日)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]