三朝鮮

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三朝鮮(さんちょうせん)は、いわゆる古朝鮮のことで、通常は檀君朝鮮箕子朝鮮衛氏朝鮮を指す。しかし朝鮮民族史学の祖、申采浩は、「三朝鮮とは本当は真朝鮮莫朝鮮番朝鮮のことであるのに、世間の人は三朝鮮といえば檀君朝鮮・箕子朝鮮・衛氏朝鮮のことだとばかり思っており、誰も真朝鮮・莫朝鮮・番朝鮮を知らない[1]」と嘆いていた。

概略[編集]

申采浩の説のあらましを以下に語る。

馬韓弁韓辰韓は、馬は莫、慕とも書き「マル」と読み天。弁は番、卞とも書き「プル」と読み地。辰は秦、真とも書き「シン」と読み人の意味。韓は「カン」でモンゴルの汗と同じく王。それぞれ天王・地王・人王の意味となる。その三王の領地は白頭山を中心に取り囲むように配置されている。

最初に朝鮮民族が住んだのは今の朝鮮半島でありそこの王が天王である。自分が天神の子だと称する檀君が愚民を集めて君臨したのが最初の国の始まりであった。人口が増え盛るに従って、のちに中国の遼寧省熱河省方面に進出したがそこの王が地王。最後に、吉林省黒竜江省方面に進出して人王を立てた。すなわち、天→地→人は人が住み国を建てた順序である。辰韓は最後にでたがシンは大の意味もあり、辰韓は「大王」でもあり、もっとも尊貴である。それは中国で天皇・地皇・人皇があったが人皇(別名:泰皇)がもっとも尊いというのと同じである。つまり辰韓が皇帝・天子であって、馬韓と弁韓はその二大属国を領する二大臣下である。

しかし戦国時代には、馬韓も弁韓も独立して争い、一つの朝鮮が分裂して三つの朝鮮になった。つまり馬韓・弁韓・辰韓の領土が独立して莫朝鮮・番朝鮮・真朝鮮になったのだ、という。申采浩はマル朝鮮プル朝鮮シン朝鮮とも書いている。

また朝鮮の首都である王険城は三つあった[2]とし、北朝鮮の平壌・遼寧省の海城(今の鞍山の海城市)・黒龍江省の哈爾濱(今のハルビン市)とした。

三朝鮮[編集]

真朝鮮[編集]

王の姓は解氏[3]。漢籍史書にはこの国はある時は東胡として、またある時は粛慎として出ている。実は東胡や粛慎は朝鮮民族だったのである。滅亡後、その跡地である満州には、夫餘国が勃興した。なお夫餘の王都は吉林省の農安(今の長春市の農安県)とする説と黒竜江省の哈爾濱とする説があるが、申采浩は後者をとり[4]、真朝鮮の首都、王険城の跡地でもあったとした。

番朝鮮[編集]

王の姓は箕氏。漢籍史書にみえているいわゆる箕子朝鮮のことである。『管子』や『戦国策』には「発朝鮮」とある。これを「発」「朝鮮」と分ける通説は誤りで、「プル朝鮮」の当て字、つまり番朝鮮のことなのである。番朝鮮のちに衛満に滅ぼされた。衛氏朝鮮が漢帝国に滅ぼされると、その跡地は漢帝国の楽浪郡とされたが、もちろんこの楽浪郡は通説でいわれている場所(今の北朝鮮)ではなく、今の遼東半島にあった[5]のである。

莫朝鮮[編集]

王の姓は韓氏[6]。この国は真朝鮮や番朝鮮と異なり、中国から遠いのでほとんど記録に残っておらず詳細不明。今の北朝鮮には「楽浪国」や「帯方国」があったが、これらは中国の楽浪郡帯方郡とは関係がなく、初めは馬韓を構成する諸国の一つだったにすぎない。中国人とは関係のない朝鮮民族の国であったが、楽浪国王の姓は崔氏、帯方国王は張氏であった。真朝鮮や番朝鮮から戦乱を逃れてやってくる人々が多く、馬韓の王は彼らに東南部の未開の辺境に土地(慶尚道)を与えて住まわせた。それが漢籍史書(『三国志』など)にみえる辰韓弁韓である。

影響関係[編集]

発想論法や諸説の源流[編集]

後世の歴史観への影響[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 申采浩は中国の古代史書にみえる「真番朝鮮」という言葉を、通説どおり「真番・朝鮮」とわけるのではなく「真朝鮮」と「番朝鮮」の併記だと考えた。また「真番郡」を「真莫郡」と誤記した例を奇貨として、真番郡は真番莫郡または真莫番郡の略であるとし、「莫朝鮮」なるものまで案出した。
  2. ^ 王険城は通説では今の平壌とされているが、当時、朝鮮が遼寧省方面にあったとする説があり、その場合、王険城を遼東半島の「海城」にあったとする説(日本人の説)があった。そこで申采浩は、どちらも正しいとした上で番朝鮮と莫朝鮮に割り振り、さらに真朝鮮の分として夫餘国の首都とされた黒龍江省の哈爾濱を想定した。
  3. ^ 夫餘や高句麗の初期の王の姓が解氏だとの伝説に基づき、夫餘王や高句麗王が真朝鮮王の子孫とみて逆推したもの。現在では解氏というのは名前の冒頭の一字を中国式の姓のように見なした後世の作為であって、最初期の頃に解という姓があったとは考えられていない。
  4. ^ 申采浩は農安説を激しく非難しているが、普通の日本人学者の中にも哈爾濱説をとる者はいる。
  5. ^ 申采浩は楽浪郡は遼東半島に、遼東郡は今の遼西に、遼西郡はさらにその西に…と修正説を唱え、上谷郡代郡(今の大同市)にあったとした。ただし楽浪郡が実は遼東半島にあったとか遼西郡がもともと遼東郡だったとかの説は朝鮮総督府ほか、戦前に日本人の一部が唱えていた説であり、申采浩がそれを逆利用したものである。またの五郡(上谷郡・漁陽郡右北平郡・遼西郡・遼東郡)は、『史記』では東胡から、『魏略』では箕子朝鮮から奪ったとされるが、申采浩は上谷郡・漁陽郡が真朝鮮(=東胡)から、遼西郡・遼東郡が番朝鮮(=箕子朝鮮)から奪ったのだとした。右北平郡については同じ本の中でも真朝鮮といったり番朝鮮といったりして一定していない。
  6. ^ 箕準が馬韓を攻めとって馬韓王になり、姓を箕氏から韓氏にかえたとしてその子孫の歴代の馬韓王の名が後世の書物に現われるが、『魏略』などの元記事では箕準は一代で途絶えたようで子孫が代々王だったようには読めない。申采浩は清州韓氏の族譜を後世の捏造として箕子朝鮮の歴代も信じなかった。彼は箕準が莫朝鮮に亡命したとしても莫朝鮮を滅ぼしたとまでは考えず、馬韓の歴代の王の名というものも後世の捏造か、もしくはもとからの莫朝鮮の王の子孫だと考えたようである。従って、箕氏が韓氏に姓をかえたというのは、番朝鮮と莫朝鮮を混同した後世の人間の誤解ということになるのである。

参考文献[編集]

  • 申采浩『朝鮮上古史』緑蔭書房 (1983年)