三日月宗近

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三日月宗近
三日月宗近:刀身
刀身
三日月宗近:附 糸巻太刀拵鞘
附 糸巻太刀拵鞘
指定情報
種別 国宝
名称 太刀銘三条(名物三日月宗近)
 附 糸巻太刀拵鞘
基本情報
種類 太刀
時代 平安時代後期
刀工 三条宗近
刀派 三条
全長 98.1 cm
刃長 79.9 cm
反り 2.8 cm(刀身反)、0.2 cm(茎反)
先幅 1.47 cm
元幅 2.97 cm
重量 673.0 g
所蔵 東京国立博物館東京都台東区
所有 国立文化財機構
番号 F-20103
備考 刃長80.0 cm、刀身反2.7 cmとする文献もある。詳細は本文参照。

三日月宗近(みかづきむねちか)は、平安時代に作られたとされる日本刀太刀)である。天下五剣の一つ。日本国宝に指定されており、東京国立博物館に所蔵されている[1]

国宝指定名称は「太刀銘三条(名物三日月宗近)
[2](たち めい さんじょう めいぶつみかづきむねちか)で、附指定は「附 糸巻太刀拵鞘」[2](つけたり いとまきたちこしらえさや)である。

概要[編集]

刀工および名前の由来[編集]

平安時代の刀工・三条宗近の作で、直刀から刀身に鎬と反りのある形式の日本刀へ変化する時期の古い時代の作品である[3]。制作年代については諸説あるが、古伝書の伝える一条天皇の治世の10世紀後半から11世紀前半(986年1011年)もしくは12世紀ごろの作とみるのが一般的である。室町時代に編纂された刀剣書である「長享銘盡」には、以下のように記述されている[4]

三条小鍛治、寛和元<乙酉>御即位御門ヲ一条ノ院ト申、神武ヨリ六十六代也。……後鳥羽院御釼鵜丸造之。少納言入道信西所持ノ釼同。釼名ノ打ヤウ三条宗近トモ打。只三条トモ打。三日月ト云太刀造之。寺丸ト云釼也。又畠山庄次郎重忠太刀三尺一寸造之。又弁慶長刀岩融三尺五寸造之。

このことから、遅くとも室町中期(1489年)には、「三条宗近作の三日月という太刀」が人々に知られていたと判断することができる。

「天下五剣」の中でも最も美しいとも評され、「名物中の名物」とも呼び慣わされた。[要出典]三日月宗近の名前の由来は、刀身に三日月形の打除け(うちのけ、刃文の一種)が数多くみられることによるものとされる[5][6]


恵勝寺合戦[編集]

1527年(大永7年)に権大納言日野内光恵勝寺合戦で戦死した際に、当時“五阿弥切り”とよばれていた本作で奮戦したとされる[7]。その後、日野内光の菩提を弔うため、友軍だった畠山卜山が本作を高野山に納めたということが徳川家の記録にあるというが、徳川将軍家の「御腰物台帳」には記されていない[7]。また、畠山卜山とは畠山尚順のことであるが、尚順は内光が戦死する5年前にあたる1522年(大永2年)7月17日に病死しているため、卜山による三日月宗近奉納説は成立しないとされている[7]

永禄の変[編集]

また、永禄の変足利義輝が襲撃してきた三好三人衆松永久通の軍に対し、将軍家に代々継承される刀を畳に突き刺し奮戦したという説が流布されているが、義輝の武勇伝が確認できる史料「足利季世紀」「永祿記」には「利刀」を突き刺したとあり名刀とは記されておらず三日月宗近も登場しない[注釈 1]。さらに、永禄の変から最も近い時期に記されたルイス・フロイスの『日本史』には「幾多の刀を取り替えて奮戦した」などとは一切書いておらず、「名刀を使用して戦った」という部分から疑問視されるものである。足利義昭から羽柴秀吉に下賜された、という伝来もあるが、こちらも史料による裏付けはない。

享保名物帳』には、尼子氏の家臣で忠義の逸話で知られる山中鹿介(山中幸盛)が一時佩用していたという伝承、また高台院の従者で似名の「山中鹿之助」なるものが与えられて佩用していたという伝承があるが伝承の枠を出ない。現存する鞘には桐と菊の金蒔絵があり、金具にはすべて三日月・雲・桐などの色絵が施されている[7]。刀剣研究家の福永酔剣は著書『日本刀大百科事典』にて、鹿介は三日月を信仰し武具にも三日月をあしらったといわれることから、鹿介が佩用していたという伝承が正しいとすれば、この拵えは鹿介が作らせたことも考えられると指摘している[7]

江戸時代[編集]

上記までの伝来については諸説あり、高台院所持以前の伝来については確定しておらず確かな史料も少ない。三日月宗近の伝来として確実であるのは、豊臣秀吉の正室高台院が所持しており、高台院が死去したのちに1624年(寛永元年)に遺品として徳川秀忠に贈られ、以来徳川将軍家の所蔵となってからである[8]。なお、江戸時代初期の三日月宗近の押形埋忠家の「埋忠銘鑑」(1917年大正6年)刊行[注釈 2])に記載されているが、それにはがあり、銘も太刀銘で茎の中ほどにあり、目釘孔の位置も、現在“三日月宗近”として東京国立博物館に所蔵されているものと異なっている[7]

近現代[編集]

明治維新以降も徳川将軍家に伝来しており、将軍家の重宝として丁重に保管されていた。1929年(昭和4年)の時点で実際に三日月宗近を観賞できた者は限られており、当時の所有者であった徳川家16代家達を除けば、宮内省御用係として御物の管理を任されていた松平頼平宮内大臣一木喜徳郎犬養毅、ほか1、2名だったといわれている[9]。1933年(昭和8年)1月23日付で徳川家達公爵名義にて国宝保存法に基づく旧国宝(現在の重要文化財)に指定される[10]

その後、時期は不明ながら徳川将軍家から流出し、中島飛行機(現在のSUBARU)の2代目社長である中島喜代一、ついで“特殊鋼開発の父”として知られる渡邊三郎の手に渡ったことが知られている[8][11]。しかし、徳川将軍家流出後の伝来については諸説あり、終戦後に徳川将軍家から金融業者を経て渡邉の許へ渡ったとする説[12][13]や、1937年(昭和12年)頃、当時本作を所有していた中島に対して、「勉強が終わったら三日月宗近を譲って欲しい」と話を持ちかけた渡邉の熱意に根負けして中島が譲ったという説[14]、1946年(昭和21年)に新宿にある骨董屋にて、本作が二束三文で売り払われているのを渡邉が偶然発見して購入したという説もある[1][15]

その後、1951年(昭和26年)6月9日付で渡辺の息子・誠一郎名義にて文化財保護法に基づく国宝に指定されている[16]1992年平成4年)11月、誠一郎は父の遺志を汲んで亀甲貞宗鳴狐なども含む12振の名刀とともに東京国立博物館に寄贈し同館の所蔵となる[17][18]。機関管理番号はF-20103[19]。なお、誠一郎は寄贈の際に旅立ちを祝し、長唄『小鍛冶』を流して家族と共に三日月宗近を見送った[20]

作風[編集]

刀身[編集]

刃長二(約80.0センチメートル)、反り九分(約2.7センチメートル)。細身で反りが高く(反りが大きい)、踏ん張りの強い(刀身の鍔元の幅が広く、切先の幅が狭く、その差が大きいこと)極めて優美な太刀である。地鉄は小板目肌がよく約(つ)み、ところどころ大肌まじり、地沸が厚くつき、地景入る。刃文は小乱れ主体で小足入り、小沸つき、匂口深く、三日月形の打のけがしきりに入る[21]。中ほどから上は二重刃、三重刃となり、帽子も二重刃となって先は小丸ごころに返る。(なかご、柄に収まる手に持つ部分)は生ぶで雉子股(きじもも)形となる。通常の太刀と異なり、佩表でなく佩裏に銘(「三条」二字銘)を切る[注釈 3][22]

以下は引用である。

 俗にいふ『天下五口の太刀』―鬼丸國綱、童子切安綱、三池大傳太、實丸經次のうへに立って、天下随一と稱される名刀が、三日月宗近の一口。三條小鍛冶の名と共に、獨り刀劍の覇を稱へて居りながら、かつて世間に姿を見せたことのない業物である。刀身が二尺六寸四分、氷柱のような秋水の冴え、鮮やかなる燒刄の匂ひ、ともに他の覬覦をゆるさぬ。…(中略)その陽の下を、光芒、水の滴る如くにいよいよ冴えて、歴史と傳説を綴りこんで來た、刀壽千年、その奇しき姿である。…二尺六寸四分の業物、この尖先から少しさがったところに、閃々たる大亂れのうちから、美しき地肌のうへに飾って、利鎌のような三日月の形、恰も亂雲をかって獨り皎々たるたる趣、これがはっきり窺はれるのも、巨匠一代、驚くべき腕の冴えではあるまいか。宗近に三日月の三字を冠らせられたのも、この所以からである。燒刄のほごれといふものゝ、作らんとして作れぬもの。名匠この刀身に、魂を鍛え入れてこそ、始めて求められるものだといふ。…ことに、この三日月宗近の一口に、他の追随をゆるさぬ、それに二つの驚きがある。それはこの刀が千年の歴史を持ちながら、その瑠璃色の如き肌のうへに、一點の汚れと染みもないことである。このやうなことは、全く奇蹟の現はれだといはれている。それからもう一つは、神秘的威厳といってもよいぐらひの、宗近のみが持つ刀の上品さがあることである。

— 讀賣新聞社著、『日本名寶物語』、(誠文堂出版、1929年)[23]

外装[編集]

附属品として金具のいくつかが欠損した金平目地桐紋蒔絵糸巻太刀拵の鞘部分のみが現存しているが、この拵えは安土桃山時代に作られたもので[6]、それ以前にどのような拵に収められていたかは不明である。

松平定信によって編纂された『集古十種』には、「河内國愛宕山蔵小鍛治宗近太刀圖」として、総長三尺六寸二分(約109.7cm)、柄長七寸二分(約21.8cm)の黒漆塗(鞘部のみは青漆掛け)黄色糸巻、赤革の帯取に八尺(約242.2cm)の鼠色の太刀緒を通した革包太刀の拵えが記載されており[24]、文献によってはこれが三日月宗近の拵とされていることがあるが、この拵えに収められていたことを確定的に示す史料はない。

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

刀剣用語の説明[編集]

  • 地沸(じにえ) - 刃文を構成する鋼の粒子が肉眼で1粒1粒見分けられる程度に荒いものを沸(にえ)、1粒1粒見分けられず、ぼうっと霞んだように見えるものを匂(におい)と称する。沸も匂も冶金学上は同じ組織である。沸と同様のものが地の部分に見えるものを地沸と称する。
  • 地景(ちけい) - 地の部分で沸がつらなって線状となり、黒光りして見えるものを指す。同質のものが刃中に現れるものを金筋と称する。
  • 足(あし) - 地と刃の境から刃縁に向かって延びる短い線状のものを足、同様のものが刃中に孤立しているものを葉(よう)という。
  • 匂口(においくち) - 地と刃の境目。これが線状に細く締まっているものを「匂口締まる」と言い、その他作風によって「匂口深い」「匂口冴える」「匂口うるむ」等と表現する。
  • 帽子(ぼうし) - 切先部分の刃文のことで、流派や刀工の個性が現れやすく、鑑賞、鑑定上も見所となる。

注釈[編集]

  1. ^ 義輝が自ら武器を手に取って戦ったことはルイス・フロイスの『日本史』、同時代の公家、山科言継の『言継卿記』に記述されているが、永禄の変について言及されている史料の中で義輝が振るった刀が何であるかを特定できる記述はない。「将軍家秘蔵の名刀を用いて戦った」という逸話の大元は、江戸時代後期に頼山陽の著した『日本外史』であるが、文中では「伝家の宝刀十余口」とのみ書かれており、具体的に三日月宗近の名が挙げられているわけではない。さらに、上記の通り『日本外史』は江戸時代後期の作であるうえに山陽の創作が多く、義輝が幾多の名刀を取り替えつつ戦ったという箇所自体の信憑性が極めて薄いものとされる。
  2. ^ 初版が大正6年、再訂版が昭和7年、追補改訂版が昭和43年に刊行されている。もととなったものは慶長から慶安に至る間に、埋忠寿斎・明甫らのもとに、刀の金具製作・磨り上げ・象嵌入れ・彫刻などに来たものの控え帳で刀の押形のほかに、日付・寸尺・折紙の枚数・依頼の用件・細工人などが書き入れてある。有益な書であるため、江戸期の刀剣人が競って筆写した。中村八太夫が蔵していたものを、ある愛刀家が文政11年に、国別に整理し、題を「埋忠銘鑑」と改め出版した。
  3. ^ 宗近の作は銘を「宗近」と切るものと、「三条」と切るものがあり、前者は御物、後者は三日月宗近のほか、岐阜県南宮大社蔵のものが著名である。

出典[編集]

  1. ^ a b 米岡 2019, p 16.
  2. ^ a b 文化庁 2000, p. 9.
  3. ^ 米岡 2019, p 15.
  4. ^ 長享銘尽』(写)、16頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2539344 
  5. ^ e国宝>太刀 銘三条(名物三日月宗近) ※2023年2月18日閲覧
  6. ^ a b 国指定文化財データベース>太刀〈銘三条(名物三日月宗近)/〉 ※2023年2月18日閲覧
  7. ^ a b c d e f 福永 1993, p. 117.
  8. ^ a b 三日月宗近、時を超えて。 - BRUTUS 2020年6月27日閲覧
  9. ^ 『日本名寶物語』(読売新聞社著、誠文堂出版、1929年)
  10. ^ 昭和8年1月23日文部省告示第15号(参照:国立国会図書館デジタルコレクション、3コマ目)
  11. ^ 昭和22年4月17日文部省告示第54号(参照:国立国会図書館デジタルコレクション、16コマ目)
  12. ^ 矢島 2005, p. 315.
  13. ^ 別冊宝島編集部 2017, p. 32.
  14. ^ 名刀と天下五剣 三日月宗近 - 刀剣ワールド 2020年6月27日閲覧
  15. ^ 道満三郎『美剣 三日月宗近』(1版)双葉社、2016年9月14日、199頁。ISBN 9784575311631NCID BB22209086 
  16. ^ 昭和27年1月12日文化財保護委員会告示第2号(参照:国立国会図書館デジタルコレクション、7コマ目)
  17. ^ 矢島 2005, pp. 316–318, 322–337.
  18. ^ 特別展図録『創立120年記念 日本と東洋の美』(東京国立博物館、1992)[要ページ番号]
  19. ^ ColBase 2020.
  20. ^ 矢島 2005, p. 318.
  21. ^ 刀身部の拡大写真
    (東京国立博物館 1089ブログ|佐藤寛介(登録室長)|2022年12月02日 (金)|"サムライの芸術・日本刀と国宝刀剣の間" 画像5枚目)
  22. ^ 作風解説は以下の文献による。
    • 『ブック・オブ・ブックス 日本の美術42 甲冑と刀剣』、小学館、1976(解説は佐藤寒山)[要ページ番号]
    • 『週刊朝日百科 日本の国宝 45』、朝日新聞社、1997(解説は小笠原信夫)[要ページ番号]
  23. ^ 『日本名宝物語 第1輯』(国立国会図書館デジタルコレクション)、95-97頁
  24. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション>集古十種:兵器・刀劔 兵器 刀劔 三 河内國愛宕山蔵小鍛治宗近太刀圖(1)(2) ※2023年2月18日閲覧

参考文献[編集]


関連項目[編集]

外部リンク[編集]