三内丸山遺跡

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三内丸山遺跡入口
三内丸山遺跡

三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は青森県青森市の郊外で発見された縄文時代前期中頃から中期末葉(約5500年前~4000年前)の大規模集落跡。所在地は青森市大字三内字丸山で、沖館川右岸の河岸段丘上に立地する。2000年に国の特別史跡に指定。遺跡跡には住居群、倉庫群のほか、シンボル的な3層の掘立柱建物が再現されており、資料館もある。2005年8月現在、青森県教育委員会三内丸山対策室が調査を行っている。

目次

[編集] 遺跡保存の経緯

この地に遺跡が存在することは江戸時代からすでに知られていたが、本格的な調査は新しい県営の野球場を建設する事前調査として1992年から行われた。その結果としてこの遺跡が大規模な集落跡とみられることが分かり、1994年には大型建物の跡とも考えられている直径約1mの栗の柱が6本見つけられた。

これを受け同年、県では既に着工していた野球場建設を中止し、遺跡の保存を決定した。

その後、資料館を作り整備を行い、六本柱建物跡においては、柱の現物は他の場所に保存しレプリカを代わりにそこに置き、保存ドームを作るということなどを行った。そのため、遺跡の整備は進んだが、公園化されてしまって、遺跡としての感じが薄れてしまったという意見もある。また、墓の道の遺構が非常に長く延びている事が分かったため都市計画道路も建設を中止した。

[編集] 遺跡の概要

八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端に位置し、標高は約20メートルで、遺跡は約38平方メートルの広大な範囲に広がっている。前期の集落は住居・捨て場などから構成されている。中期には、住居・大型掘立柱建物・掘立柱建物・貯蔵穴・土抗墓・粘土採掘穴・盛り土・道路などが、前期同様計画的に配置されている。

この遺跡は現在の敷地から、広場を囲むように住居が造られた環状集落であると見られることもあるが、住居が非同心円状に機能別に配置されているところから見て、それとは異なる形式であると考えられる。現在の遺跡の環状構造はかつて野球場建設の際、その敷地が円形であった跡であり、遺跡とは関係ないものである。

遺跡には、通常の遺跡でも見られる竪穴住居高床式倉庫の他に、大型竪穴住居が10棟以上、さらに祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物が存在したと想定されている。遺跡から出土したをDNA鑑定したところ、それが栽培されていたものであることなども分かり、さらにはヒョウタンゴボウマメなどといった栽培植物も出土した。それらは縄文時代の文化が従来考えられているよりも進んだものであることを示すものであった。遺跡は他の近くの遺跡に繋がっている可能性が高く、未だに全容は把握しきれていない。

[編集] 三内丸山遺跡と一連のものであると考えられる遺跡

  • 熊沢遺跡
  • 三内遺跡
  • 三内沢部遺跡
  • 三内霊園遺跡
  • 近野遺跡
  • 安田水天宮遺跡

[編集] 遺跡の終焉の謎

これほどの遺跡がなぜ終焉を迎えたのかは謎である。一因としては、気候の寒冷化などが挙げられるが、それだけで遺跡全土を手放すとは考えづらく、栗の栽培を停止しなければならない何か特別な理由があったという見解も示されてはいるが、それが何であるかは分かっていない。

[編集] 出土遺物

出土遺物は段ボールで数万箱に及んだと言われる。土器石器が中心であるが、日本最大の板状土偶などといった土製品や石製品も多く出土している。また、この他にも北海道地域を中心とした交易で得たと推測される黒曜石琥珀漆器翡翠製大珠などが出土している。出土遺物1,958点が2003年(平成15年)5月29日に国の重要文化財に指定された。

[編集] 遺構

[編集] 六本柱建物跡

六本柱建物(復元)
大型竪穴式住居
高床式建物

現在まで三内丸山遺跡で発見された遺構の中で最も重要視されているものである。その柱の大きさで判断されることも多いが、それと同等なくらい問題なのはその柱の穴の間隔、幅、深さがそれぞれ4.2m、2m、2mで全て一致することである。

これは、その当時既に測量の技術が備わっていたことを示すものであり、知的な面から見てもここに住んでいた住民達が当時としては高度な領域に達していたことを示すものなのである。特に4.2mというのは他の遺跡でも確認されており何らかの技術の共有をしていた可能性が考えられている。柱本体にも腐食を防ぐため周囲を焦がすという技術を使っており、腐食を長い間防いだ一因となっている。

[編集] 復元建物

六本柱建物跡の復元に当たっては様々な意見が出された。建設する場所は六本柱建物のあったと推測される場所のすぐ脇に決まったものの、ただ柱が立っていただけなのではないかと言う意見や、逆に装飾具などもある非常に凝ったものだったのではないかと言う意見も出された。

結局、中間を取って屋根のない三階建ての建物にしたわけであるが、床があるのに屋根がない、もしくは屋根がないのに床があるというのはどうしても中途半端な感が否めず、後々までこれでよかったのかと疑問の声が上がる原因となっている。なお、普段はここに登ることはできない。

[編集] 大型竪穴式住居跡

三内丸山では幅10m以上の大型竪穴式住居跡がいくつも見つかっているが、その中でも最大なものは長さ32m、幅10mのもので、これが復元されている。中に入ることも可能である。

[編集] 竪穴式住居跡

三内丸山遺跡では、一般の住民が暮らしていたと思われる竪穴式住居跡も多数見つかっている。屋根に関してはやはり様々な憶測が出たためか、茅葺き、樹皮葺き、土葺きの3種類の屋根を持った住居をそれぞれ復元した。これも中に入ることが可能である。

[編集] 掘立柱建物跡(高床式倉庫跡)

東西約75m、南北約18mの範囲に掘立柱建物のものであると推測される柱穴群が見つかっている。この掘立柱建物の柱穴の周辺及び内側には、生活の痕跡が発見できなかったため、この掘立柱建物は高床式建物であった可能性が高いと判断され、現在高床式建物として復元されている。階段はあるが中に入ることは出来ない。

[編集] 環状配石墓

道の跡周辺からは環状配石墓(ストーンサークル)も見つかっている。この墓はムラ長の墓とも考えられている。石の並べ方が、南方のやや離れた所にある小牧野遺跡と共通しているとして注目されている。また、1999年10月6日にこの墓の一つから炭化材が出土したが、これは最古の「木棺墓」の跡であるとも言われる。

[編集] 遺跡整備の方針

1998年に遺跡整備の基本計画が取りまとめられ、遺跡整備の基本方針として以下の点が掲げられた。

  • 保存を検討しながら実物遺構を公開展示する。
  • 建物の復元だけでなく、植生も復元する。
  • 縄文時代を体験・体感できるような企画性に富んだ遺跡の活用をする。
  • 見学者が憩い楽しめるような環境作りと、充実した各種サービスを提供できる場とする。
  • 継続的な調査・研究を行い、縄文文化研究の拠点となる施設と体制を整備する。
  • 保存・活用の計画を段階的に推進する。

[編集] 「観光施設」としての遺跡

近年、三内丸山遺跡は「縄文時遊館」などの建設などで景観が整った。しかしその一方、「遺跡らしさ」が失われたという意見もある。有料化構想が出た際は「六本柱の横に白いドームがある状態など、とても縄文のたたずまいとは言えない」として反対論が噴出したりもした[1]。結局有料化は断念となった。

そして、2010年開業の東北新幹線新青森駅開業に伴う「三内丸山高架橋」の完成により、車内から遺跡を見渡せるようになると予想される。

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ 三内丸山遺跡 県が有料化構想/賛成、反対…検討懇話会で議論百出 東奥日報

[編集] 外部リンク