三井理峯
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三井 理峯(みつい りほう、1911年(明治44年)5月27日 - 2002年(平成14年)7月14日)は東京府北豊島郡(現:東京都豊島区)出身の教師、政治運動家。戸籍名は成澤芳子(なるさわ よしこ)であることが確認されている。
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[編集] 経歴
- 高等小学校卒業後、陸軍指定工場で働きつつ専門学校入学者検定(略称:専検)に合格。東京府女子師範学校(現:東京学芸大学)に進学し、本科卒業。更に同学専攻科修了。東京都台東区立小学校教諭となる。
- 定年退職後、埼玉県鳩ヶ谷市(現:川口市)に移住。1989年から1994年にかけて旺盛な選挙闘争を敢行。
- その後長期に亙る闘病生活の末、2002年に逝去していたことが、大川興業総裁大川豊ら選挙マニアによる調査で判明した。
[編集] 政歴
- 1989年7月 第15回参議院議員通常選挙(東京都選挙区) 無所属 2109票(43名中27位) 落選 供託金没収
- 1990年2月 第39回衆議院議員総選挙(東京都第3区) 無所属 674票(12名中9位) 落選 供託金没収
- 1990年9月 鳩ヶ谷市長選挙 無所属 82票(5名中5位) 落選 供託金没収
- 1991年4月 東京都知事選挙(統一地方選挙時) 無所属 829票(16名中14位) 落選 供託金没収
- 1992年7月 第16回参議院議員通常選挙(東京都選挙区) 無所属 1615票(52名中35位) 落選 供託金没収
- 1994年11月 鳩ヶ谷市議会議員選挙 無所属 35票(30名中30位) 落選 供託金没収
[編集] 著書
- 『我は平民』(一)
- 『我は平民』(二)
- 『我は平民』(三)(第三巻は未刊で、刊行予定)
- 既刊分については東京都港区虎ノ門の株式会社オカモトヤ扱いで自費出版した模様。これらは国立国会図書館、自費出版図書館(品川)、ドイツ―日本研究所図書室(四ッ谷)、鳩ヶ谷市立図書館等にも架蔵されておらず、現著に触れることは絶望的だが、政見放送では自ら同著[1]を手にとって朗読し[2]、ドイツ大使館に寄贈したと明言もしているので、実在が裏付けられている。
- 同著は、三井と同居していた親族も既に所有していないと証言した[3]。
[編集] 三井理峯という名前
1991年の都知事選選挙公報の末尾には「戸籍名 成澤芳子」と記されている。少なくともこの選挙の出馬時において、三井理峯という名は通称として選挙管理委員会に届けられたものだと考えられる。
1992年参院選出馬時の選挙公報では、戸籍名が「三井理峯」に変更されたと主張している。この選挙公報には、「家裁「氏」「名」変更理由判例となる」という手書き・縦書きの文の後、判決文の体裁をとった改名の経緯についての活字・横書きの文書が掲載されている。
この文書では、各種の記録と小林麻子調査官の調査報告から以下の事実を認定する、としている。
- 「三井理峯」という通名は第二次世界大戦以前から用いているもので、「三井」は父方の先祖の二百年前の姓を再興を期し、また華道では「理芳」、茶道においては「芳峯」の号を与えられていたため、双方から一字ずつ取り「理峯」と称した。
- 「成澤」姓は、徳川時代末期に父方の家の養子となり跡を継いだ「太蔵」という人物の旧姓であり、父方がその後いつの間にか「三井」姓に代わって「成澤」姓を称するようになったものであるという。
現在まで、小林調査官が実在の人物であるか、実際の家庭裁判所の判決文であるのかということについての検証は行われていない。なお、『インディーズ候補列伝』(大川豊)では、選挙管理委員会の事務局員が、三井さんは改名が認められたそうです、と伝聞調で語っている。
戒名は「凌雲理峯信女」であり、「理峯」の名がそのまま入っている。
[編集] 人物
- 判読困難な選挙公報(本人による手書き)[4]や、度々入れ歯が外れる事による極めて聞き取りにくい政見放送で泡沫候補の中でも知名度は高い方である。
- その主張の多くは一般有権者には理解困難だったが、出馬意図として後生掛温泉、NHK、担当民生委員、並びに晝間仲右衛門(ひるま なかえもん)初代鳩ヶ谷市長に対する被害妄想を執拗に訴え罵倒した事実や、政見放送中の「牢にぶち込まれた」という閉鎖病棟への入院を示唆する発言より、被害妄想、関係性妄想を中心とするなんらかの精神病に罹患していたものと解される。
- 選挙公報には上記の被害妄想の他、自らの氏名変更についての家庭裁判所の認可理由や、愛読書の書名などが記された。
- 加えて「不幸な者をなくす為に」というスローガンの下、視覚障害者の医大入学および医師資格取得の実現、公立の料理教室(「にしんを食べると怒らない」を例示している)設立といった政策を墨書している選挙公報もある。
- テレビの政見放送ではシアン(空色)のワンピースのような服(1989年参院選)、灰色を基調とした縦縞柄の和服姿(1990年衆院選・1992年参院選)、白色の拘束衣若しくはカーディガン調の病院服のような衣装(1991年都知事選)を身に纏っていた。選挙公報の写真の服装も和装・洋装を使い分けるなど毎回異なっており、身だしなみには気を配っているように見えた。
- 政治団体は持たなかった。また選挙カーを用い氏名等を連呼する一般的な街宣活動は行わず、基本的に選挙ポスターも掲示しなかったが、希に、或いは選挙とは無関係に、辻立ちは行っていた模様。
- 1990年の鳩ケ谷市長選挙でのみ、わら半紙に墨書したポスターを自宅近くに掲示。更に選挙後になって、新聞折り込みチラシの裏側に立候補理由や選挙費用内訳を墨書した物が、自治会掲示板に貼られているところを第三者に目撃されている。
- 活動資金は三井本人の蓄えと、三井同様に小学校教諭だった実妹の年金から捻出していた[3]。
- 永らく豊島区で生活していたが、何らかの事情により本人の意に沿わぬ形で鳩ヶ谷市に転宅させられ、市内の自宅兼アパートで親族と同居するに至った。
- 同居の親族の中に市議会議員補欠選挙で当選し1期務めた人物がある[3]。また三井本人の政見放送によると鳩ヶ谷市役所職員を勤めていた親族もいたようである。
[編集] 公約・主張
- 92年参院選
- 首府東京の憲法創制と国旗の公募
- 同時通訳学部の設置(欧米語:各女子大学、アジア語:警察大学校)
- 生命保険の加入制度の見直し
- 各市区町村単位で公費で無料の高齢者・重度障害者施設の国の法令に基づいた運営
- 公選による行政の長との面接機会を設ける(月1回・自由順番制)
- 90年鳩ヶ谷市長選挙
- ブロックべい廃止
[編集] 三井理峯を取り上げた書籍
- 1992年頃、記者が鳩ヶ谷市内の三井宅を訪問。家族に応対されるもあまり語りたがらない様子で、本人にも会えずに終わった。
- 1993年の「新党ブーム」を受け、三井を党首とする「理峯新党」の結成を訴える。
- 根本敬・村崎百郎 『電波系』 太田出版 1996年 ISBN 4872333055
- 大川豊 『誰が新井将敬を殺したか』 太田出版 1998年 ISBN 4872334108
- 大川豊 『日本インディーズ候補列伝』(DVD付) 扶桑社 2007年 ISBN 9784594053970
- 「インディーズ候補」取材の集大成版。三井宅を直撃取材し、三井が他界していたことを明らかにした。
- 木下涼汰 『解・我は平民』 2011年
- 3つの政見放送の全文の収録、朗読分の『我は平民』の解説が掲載されている。
[編集] 註
- ^ 映像によると、大きさは菊版と見られ、装丁は全面芥子色
- ^ 原稿用紙に書き起こしたものを読んだこともある
- ^ a b c 大川豊『日本インディーズ候補列伝』
- ^ 1989年の第15回参議院議員通常選挙時のように、活字の場合もあった
[編集] 関連項目
- 泡沫候補
- ヨーゼフ・クライナー(ボン大学近現代日本研究センター所長、法政大学特任教授)