一騎討ち
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一騎討ち(いっきうち)とは、戦争状態にある戦場において騎乗の戦士同士が一対一を原則として決着をつける戦闘手法である。決闘とも類似の面があるが、決闘には戦場で行うことを前提とはしない私闘も含まれるため必ずしも同意ではない。
日本では、主に中世前期(鎌倉時代後期)まで武士団を構成する武士の間で行われた。手法や作法に当事者である武士間の文化や価値観、戦術ドクトリンがある程度共通であることを前提とする戦闘手法と言える。
鎌倉時代後期から南北朝期に発達した悪党を討伐する場合には、価値観に相違がある上に悪党側はゲリラ戦を採る傾向があったため有効に対処しえなかった。 元寇に際しては歩兵主体の集団戦法をとる元軍には有効性が薄く不利な戦いであったと言われるが、最近では当時の武士の名乗り上げなどは敵に向かっての行為ではない事や、数十人の武士団で上陸してきた部隊を退けた文献も見つかるなど、これまでとは異なる説も出てきている。 大規模な兵力動員や集団戦法の採用、戦闘集団の組織化が進んだため一騎討ちは廃れ、応仁・文明の乱前後には戦闘の主役は戦闘員であると同時に指揮官でもある武士自身から、専従の兵士である足軽に完全に移行した。
現在では本来の意味から派生して、選挙やスポーツにおいて一対一(事実上も含め)の個人や集団で勝敗を競う場合に、「一騎討ち」と表現されることがある。
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[編集] 日本における「一騎討ち」
[編集] 一騎討ちの始まり
日本各地で邑同士の小競り合いが行われるようになった弥生時代から、大和王権が確立・発展した奈良時代までの戦争は、歩兵主体の集団戦闘であり一騎討ちという概念は発達しなかった。平安時代に入ると国内外の軍事的緊張は緩和したことから、朝廷が直接持つ軍事力は縮小されていき、代わって、各地に血縁的・地縁的なつながりを持つ源姓、平姓、藤姓などに代表される大小の武士団が台頭した。
武士団は指揮官である武士(例えば惣領)に、騎乗の家の子(指揮官の子弟など近親者)や郎党、徒歩の郎党や従卒が付き従うという構成だった。徒歩の従卒などは専業の兵士とは限らず戦闘能力も低かったが、主要戦闘員である武士は日常的に乗馬、弓術さらに騎射の訓練を行い、名誉を重んじた。
戦闘(合戦)時には、敵の指揮官である武士を討ち取ることで、敵の士気を喪失させ、命令系統を混乱し、統制の取れた戦闘活動を不可能にすることができた。また、戦闘の決着がついた最終段階において敵の指揮官を討ち取ることで勝利を決定づけることができるため、合戦手法として一騎討ちが誕生したと言われている。
[編集] 戦闘時の作法の確立
[編集] 元寇
[編集] 衰退へ
足軽の登場により、集団戦へ移行した。
[編集] 海外における「一騎討ち」
- 中国
- ヨーロッパ
[編集] 有名な一騎討ち
史実であるかについては疑いが大きい。伝承によれば第四次川中島の戦いにおいて、武田本陣に単騎ないしは寡兵で突入した上杉謙信が床机に腰掛けた武田信玄に馬上から斬り付けたとされる。異説として川の中で互いに馬上での太刀討ちであったとも言われる。

