ヴォルフ=ハインリヒ・フォン・ヘルドルフ

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ナチス・ドイツの旗 ドイツ国の政治家
ヴォルフ=ハインリヒ
グラーフ・フォン・ヘルドルフ
Wolf-Heinrich Graf von Helldorf
Wolf-Heinrich Graf von Helldorf.jpg
1938年、ヴォルフ=ハインリヒ・フォン・ヘルドルフ伯爵
生年月日 1896年10月14日
出生地 ドイツの旗 ドイツ帝国
Flag of Prussia 1892-1918.svg プロイセン王国メルゼブルク
没年月日 1944年8月15日(満47歳没)
死没地 ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
Flag of Prussia (1918–1933).svg プロイセン州ベルリン
プレッツェンゼー刑務所(de)
所属政党 Reichsadler der Deutsches Reich (1933–1945).svg国家社会主義ドイツ労働者党
称号 伯爵(Graf)、突撃隊大将
一級鉄十字章二級鉄十字章
黄金ナチ党員バッジ

ナチス・ドイツの旗 ポツダム警察長官
任期 1933年3月 - 1935年7月

任期 1933年11月12日 - 1944年7月

ナチス・ドイツの旗 ベルリン警察長官
任期 1935年7月 - 1944年7月
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ヴォルフ=ハインリヒ・グラーフ(伯爵)・フォン・ヘルドルフ(Wolf Heinrich Graf von Helldorf、1896年10月14日1944年8月15日)は、ドイツ政治家警察官僚貴族
国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)のベルリン突撃隊指導者を経て、ナチ党の政権獲得後にはベルリン警察長官を務めた。親衛隊(SS)にも所属した。ナチ党独裁体制の守護者の一人であったが、1944年7月20日ヒトラー暗殺未遂事件に関与して処刑された。

略歴[編集]

ナチス入党まで[編集]

ドイツ帝国プロイセン王国ザクセン県(de:Provinz Sachsen)メルゼブルクMerseburg)に騎兵大尉のフェルディナント・フォン・ヘルドルフ(Ferdinand von Helldorf)の息子として生まれる。ヘルドルフ家(de)はマイセン辺境伯に連なる貴族の家柄である。

1914年に第一次世界大戦が勃発するとテューリンゲン軽騎兵連隊に入隊。1915年3月に少尉(Leutnant)に昇進した。その後、1916年10月に機関銃中隊の指揮を執った[1]。大戦中に一級鉄十字章二級鉄十字章を受章した[2][3]

戦後、義勇軍(フライコール)の「フライコール・ロスバッハde:Sturmabteilung Roßbach)」に参加し、共産主義者を相手に街頭闘争を行った[2][3]。1920年に君主主義者たちが起こしたカップ一揆にも参加したが、一揆の失敗でイタリア王国へ国外逃亡し、4年間をイタリアで過ごした[3]

1924年にドイツに帰国[1]。この頃、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)は前年に起こしたミュンヘン一揆の失敗により解散させられており、党首アドルフ・ヒトラーは投獄を受けていた。すぐに釈放されたエルンスト・レームはヒトラー不在の間、元フライコールなどを集めてフロントバン(de:Frontbann)を組織していた。ヘルドルフもこのフロントバンに参加し、レームの側近となった[4]。レームのヘルドルフへの信任はかなり厚く、レームがヒトラーと仲違してフロントバン指揮官を辞した時、レームは後任としてヘルドルフを指名している[5]

ナチス入党からベルリン警察長官就任まで[編集]

1926年にナチ党に入党した[1][2][3]。南米から呼び戻されたレームが1931年1月に突撃隊(SA)幕僚長に任じられ、1931年春にレームによる突撃隊の機構改革が行われた[5]。この際にヘルドルフはベルリンの突撃隊指導者(SA-Führer in Berlin)に任じられた[1][2][3]。1932年にはナチ党のプロイセン州議会(de:Preußischer Landtag)議員に当選した[3]

1933年、ヒトラーの首相官邸に集まったベルリン・ナチ党幹部の記念写真。中央がヘルドルフ。右はゲッベルス。左はエルンスト。ヘルドルフとエルンストの間はシュペーア

ヒトラーが首相に任命され、政権を掌握するとヘルドルフは1933年3月にポツダム警察長官(Polizeipräsidenten in Potsdam)に任命された[1]。また1933年にはベルリン=ブランデンブルク突撃隊指導者(SA-Führer in Berlin-Brandenburg)になるとともに親衛隊少将階級でブランデンブルク大管区親衛隊指導者(Leiter der SS im Gau Brandenburg)にも任じられた[1][3]1933年11月12日の選挙国会議員にもなった[1][3]

1935年7月からベルリン警察長官(Polizeipräsidenten in Berlin)に任命された[1][3]。以降、ヒトラー暗殺未遂事件に関与して罷免される1944年7月までこの地位にあった[1]

ブロンベルク罷免事件との関連[編集]

国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルク元帥罷免事件にヘルドルフは関与している。1938年1月12日、ブロンベルク元帥はヒトラーと空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング上級大将の立ち会いに下にエレナ・グルンと再婚した。

ところがこの直後、刑事警察(クリポ)の風紀犯罪担当にブロンベルクの妻エレナらしき女性の売春の写真が届けられた。刑事警察局長アルトゥール・ネーベは親友のヘルドルフに調査を一任した。

ヘルドルフは1938年1月23日に、この写真の女性がエレナかどうか確認するため国防軍部部長ヴィルヘルム・カイテル砲兵大将を訪れた。カイテルは知らないと答え、結婚式に立ち会ったゲーリングに聞くといいと勧めた。同日夕刻、ヘルドルフはゲーリングにこの写真を届けた。ゲーリングはこれを利用して国防相のスキャンダルに仕立て、ヒトラーにブロンベルクを罷免させたのである[6]

ユダヤ人迫害との関連[編集]

1936年、イタリア警察の歓迎イベントで体操選手と握手するヘルドルフ。

ヘルドルフは裕福なユダヤ人から旅券を没収してそれを平均25万マルクで売却するという悪行を犯した(de)[3]

しかし確信犯ではなかったらしく、1938年11月9日から10日かけて起こった反ユダヤ主義暴動「水晶の夜」事件について嫌悪感を隠さなかった。事件発生時、ヘルドルフはベルリンにいなかったが、戻ると直ちにベルリン警察幹部を会議に招集し、暴動を止めなかったことについて彼らを激しく叱責している。また略奪を行った者は全員射殺するよう命令している[2]

ヒトラー暗殺事件に関与[編集]

ヘルドルフがヒトラー暗殺を企む「黒いオーケストラ」グループと最初に接触したのは1938年9月のズデーテン危機の時である。ヨーロッパに再び戦争を起こしかねないヒトラーの強硬な外交姿勢に反発した前参謀総長ルートヴィヒ・ベック、その後任の参謀総長フランツ・ハルダー、ベルリン軍管区司令官エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベンらの間でヒトラー暗殺計画が企てられた。その際、ヴィッツレーベンは暗殺後のクーデタを成功させるには警察の協力が必要不可欠と考え、ヘルドルフの部下のベルリン警察長官代理フリッツ=ディートロフ・フォン・デア・シューレンベルクde:Fritz-Dietlof von der Schulenburg)伯爵と接触。彼を通じ、ヘルドルフや刑事警察長官アルトゥール・ネーベもクーデタへ協力することを表明したのである[7]。 しかしイタリアのムソリーニの調停で有名なミュンヘン会談が開かれた。会議の結果、イギリスとフランスがドイツのズデーテン地方併合を認め、戦争の危機は回避されたのでこの時の暗殺計画は中止された。

その後、1944年7月20日のヒトラー暗殺計画もヘルドルフは協力した。部下の警察部隊をクーデタの予備隊として出動できるよう準備していた[8]。しかしヘルドルフは、暗殺計画の立案者は陸軍であるので、まず彼らが最初に行動を起こすべきで、彼らが行政地区を包囲するなら警察からも応援を出すが、警察が先にやる必要は無い、と考えていた[9]

暗殺も「ヴァルキューレ作戦」発動による反乱も完全に失敗に終わった7月21日未明、ヘルドルフは自分が陰謀と無関係である事を証明するため、反乱鎮圧本部が置かれていたヨーゼフ・ゲッベルス邸を訪れたが、そのまま逮捕された[10]

8月15日、人民法廷での裁判にかけられ、裁判長ローラント・フライスラーから死刑宣告を受け、その同日プレッツェンゼー刑務所Gedenkstätte Plötzensee)の処刑場において、ピアノ線に吊るされる形で絞首刑に処せられた。

参考文献[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i Axis Biographical Researchの"SS-OBERGRUPPENFÜHRER & GENERAL DER POLIZEI"の項目
  2. ^ a b c d e Hamilton、p92
  3. ^ a b c d e f g h i j ヴィストリヒ、252頁
  4. ^ ヘーネ、29頁
  5. ^ a b 桧山、160頁
  6. ^ ヘーネ、241-242頁
  7. ^ クノップ、43頁
  8. ^ マンベル、118頁
  9. ^ マンベル、120頁
  10. ^ マンベル、175頁